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 サクリ、サクリと、砂が鳴く。革のブーツが、砂を割る。
 果ての知れない砂の海――ひとりの少女が、そこを行く。……

 華奢(きゃしゃ)なその身を覆い隠す、砂色の、フードつきの外套。あまりにも深くフードをかぶっている上、口元を布きれで覆っているために、表情はおろか、目鼻立ちさえ、遠目からでは確認できない。
 外套(がいとう)は前をぴったりと合わされていて、脚部のみが露出している。傷みの激しい、各所のほつれた長い革のブーツで、彼女は淡々と、一定の歩幅を砂上に刻みながら歩いていた。
 地上の嘆きもそ知らぬ風に、ゆっくりじっくり、味わうように、砂上のすべてを焼き上げる――そんな太陽の存在などまるで意に介さず、少女はただひたすらに、黙然と進み続ける。揺らぐ熱炎を切り裂くようにして、前へ、前へ――行く手には、憎らしいほど晴れ渡る青空と、世界の果てとも見まがう悠久の砂漠が広がっているだけなのに。
 ただ、歩く。
 意地も、絶望も、自棄も、諦念も、その歩みには見受けられなかった。むしろ、砂漠を渡り、歩いているうちに、すっかりすべての色が抜け落ちてしまったような――どこまでも澄みきった、透明の風情。何も信じず――何も思わず――無念にして無想――淡白にして決然――揺らぎのない、ひとつの意志の元に、動き続けている。
 一歩。
 一歩。
 どれだけ歩めば、砂漠を抜けられるのか。あとどのくらい、歩いていられる余力があるのか。本当に、これで良かったのか。もっと賢く、もっと有効な手段が、他にあったのではないか。ひょっとして、致命的なまでに間違ってしまったのではないか。引き返した方が、良いのではないのか――
 そんな迷いを微塵も見せずに、一歩。
 砂漠は広い。空は青い。太陽は暑く、月は冷たい。長き道のりを行かねばならない旅人に、一瞬の安らぎも与えまいとするかのように、彼の地は厳しく、過酷であった。
 それでもなお、一歩。一歩。一歩。……
 確かめるように、一歩。踏みしめるように、一歩。
 一歩が十歩となり、百歩、千歩、一万歩、一億歩となろうとも、少女の風情に、揺らぎはない――。

 サクリ、サクリと、砂が鳴く。皮のブーツが、砂を割る。
 果ての知れない砂の海――ひとりの少女が、そこを往く。……



1/3

 彼女は、とても、美しかった。
 年の頃は、十代半ば。さなぎの背中が割れるように、積み重ねてきた経験を踏み台にして、人が、自身の本質をはばたかせようとする、そんな時期。
 彼女は、とても、美しかった。
 東西の商業をつなぐルートの中央に位置するがゆえに、自然、発展してきた商業都市――その大通りの片隅で慎ましやかな生活を送る、一介の靴屋の娘であった。
 彼女は、とても、美しかった。
 幼い頃に母を亡くし、やや頼りなくも仕事には妥協を許さぬ父のもと、家事を一手に引き受けながら育ってきた。財は豊かというわけではなかったが、生活に困るというほどでもなく、適度に節制していけば、充分快適に暮らしていくことができた。
 彼女は、とても、美しかった――。
 まず注目を受けるのは、頭髪であった。貴族や豪商の娘が好むような、香油などを用いた入念極まりない手入れを施さなくとも、常に柔らかな艶が宿っており、彼女が道を歩くたび、さらさら、さらさらと、砂の零れるような音が聞こえてきそうだった。
 次に視線が向くのは、頭髪の下なる面差しであった。なめらかな触感を想像させる頬が艶めく、柔らかな細面に、人は、茹でられて殻を剥かれた卵を連想した。その上に、すらりとした鼻梁(びりょう)が通り、桜色の唇が乗る。そして、穏やかな光を宿した眼が、大きくまろやかに開かれ――かくして組み立てられたる相貌は、個々の部位の放つ美が、互いを強調し合いつつも完全に調和し、結果として、ひとつの大いなる黄金と化していた。実際、彼女の顔を目の当たりにした者は皆、目の眩むようなまぶしさを覚えた。
 そうして目を逸らしたところで、最後に、彼女の肢体に見とれるのだった。平均的な背丈に合わせて、極端に豊満でもないが、病的に細いというわけでもない、しなやかな身体つきをしていた。こだわりと才能に満ちた彫刻家が、唸りに唸って仕上げた彫像を思わせる、芸術的な均整がそこにあった。そんな肢体が実際に動いているということに、人々は感動を禁じえなかった。
 彼女は、とても美しかった。
 椀に(かゆ)をよそったり、井戸から水をくみ上げたり、雑巾で卓を拭いたりといった、何気ない所作すらも、彼女が実行すると、とたんに人の目を奪って止まない芸術と化した。街中を歩くだけでも、周囲の人々が動きを止めて、何百年と昔から飾られてきた美術品を委細もらさず見つめるように、注目し、見送るのだった。
 彼女の美を知らぬ者がそんな話を耳にすれば、また大層な冗談を、と笑い飛ばしてしまうのが常だったが、ひとたび彼女の姿を見れば、納得しない者はなかった。
 彼女は、とても、美しかった。
 いつ頃から、彼女のまとう「美」が際立ち始めたのかは、今となっては定かではない。だが、今や彼女が、たぐいまれなる美貌の持ち主であることは疑いようもなく――評判は瞬く間に町中に伝播し、旅の途中でこの町に寄った商人たちの口を通じて、世界中にまで広がった。
 求婚、招聘(しょうへい)は枚挙に暇がないほどであった。町の名士貴族、領主、あるいはどこかの豊かな国の王。惜しみなくふんだんに金銀を凝らされた、見るからに豪奢な贈り物が連日、小さな靴屋に届けられた。
 力ずく、権力ずくでも彼女を手に入れようと考える者もあった。最初は純粋に求婚していたが、謝辞の返事が届くや否や、靴屋の娘ごときに侮辱を受けたといきり立ち、私兵を差し向ける者さえあった。
 だが、いずれの計画も失敗に終わった。
 我が主の下へ参らねばこの先の生活は保証せぬぞ、と圧迫してくる役人の手先や、いいからとっとと黙ってついてきやがれ、と乱暴に拉致しようとする私兵たち――そのいずれもが、下された命を果たせなかった。
 彼女の美貌ゆえであった。
 勇猛果敢な猛者も、冷酷無情な役人も、乱暴粗野な荒くれ者も、彼女に手出しをすることはできなかった。長いまつげが伏せられ、滑らかさと鋭さが絶妙なバランスで入り混じった相貌に沈痛の色が浮かび、鈴が柔らかく鳴るがごとき玲瓏(れいろう)たる美声で、ごめんなさい、どうか勘弁してください、と言われると、たちまちへどろもどろになり、彼女の表情が曇るのを恐れるように、必死になだめすかして謝り出した。
 そのうち、あなたも大変ですね、お茶でもいかがですか――半ば同情の混じった声をかけられてしまい、いやあ、これは面目ねえ、いただきます――思わず恐縮して、だんだん世間話に移行するのだった。遠くから派遣されてくる使者なれば、珍しい話や面白い話のタネを腐るほど持っていた。美貌に気さくな笑顔を浮かばせるべく、かつて聞き覚えた話の数々を上機嫌に披露し、やがて夕暮れが近づいてくると、長居の非礼を詫びつつ家を出て――自分が何をしにきたのかなど、すっかり忘れてしまっているのだった。使者に限らず、求婚者が直々に会いに来ても、結果はまったく変わらなかった。
 不思議なことに、直に彼女と出会った者は、求婚しようという気を微塵も起こさず、また、ずっと求婚していた者であっても、急速にその気を失うようだった。あれは無理だ――彼らは口をそろえて言った。侵すべからざる領域があるというか、とても、求婚しようだなんて気にはなれない。なんというか……次元が違うのだ……、と。
 彼女の方にも、一向に求婚を受諾する気配がなかったものだから、やがて、求婚は散発的にしか来なくなった。それぞれ異なる特色を持った使者が世界各国から慌しく来訪する日々にすっかり疲れていた町の人々は、ほっとしたものだった。
 彼女に贈られた財産目当てに盗みを働こうとする輩も、もちろん現れた。だがそれは、事前に領主が私兵を送り、こっそり靴屋を監視して、いざ犯行に臨むものあらば片端から捕らえていったため、やがて誰も盗みに入ろうとはしなくなった。領主には、そうして靴屋に恩を着せ、財産の幾許(いくばく)かを謝礼としてもらおうという、なんともせこい心算があった。もっとも、交渉のため訪れた使者が、ことごとく彼女に圧倒されてしまい、領主が望んだほどの報酬は得られなかったのだが。
 彼女は、とても、美しかった。
 けれど、ただの町娘であった。
 彼女自身は、自らがそれほど美しいとは思っていなかったから、これほど多くの人が求婚してくるのに、すっかり当惑していたし、迷惑にも思っていた。とりわけ、年齢を重ねるにつれ、昔は気さくに話していた人々がよそよそしくなり、話をすることが畏れ多い、何かバチが当たってしまいやしないか――とでも言わんばかりに敬遠されるのが、哀しかった。
 見知らぬ相手が、彼女の現状を見て近づきがたいと感じるのであれば、まだ分かる。耐えられる。本当に辛いのは、昔からの知り合いや幼なじみですら、まともに目も合わせてくれなくなったことだった。
 彼女の方は、今までどおり、気さくに話しかけているのに、相手は視線をさまよわせ、なるべく彼女を見ないように、当たり障りのない言葉でその場をごまかし、逃げてしまう。なぜ、そんな態度を取られるのか、彼女にはまったく理解できなかった。
 やっぱりみんな、あんなにうじゃうじゃといろんな人がやってくることに辟易(へきえき)してしまったのだろうか。そう思うと、ますます求婚を受ける気が失せるのだった。
 最初に求婚を断ったのは、自分にとって、貴族や豪族などといった相手が、それこそ次元の違う、きっと話の合わない存在だとしか思えなかったから――結婚するなら、もっと話の合う身近な庶民の男性だろうと考えていたからだったのだが、今では知り合いの男たちはみな彼女を避けていくため、恋愛に興じることもままならぬ。
 よそよそしいのは、他人ばかりではなかった。
 もともと気弱な父は、あまり娘に話しかけなくなった。生活していく上で必須となる会話はもちろんするが、それもどこか、ぎくしゃくとしたもので、互いの内実に踏み込むような会話をすることは、なくなっていた――表面ばかりを、撫ぜるようだった。自分から見て、遠い存在に思えてしまう娘に、どう接していいか分からない、といった様子であった。
 彼女は、とても、美しかった。
 気がつけば――内心を吐露する相手が、どこにもいなくなっていた。
 彼女は、とても、美しかった。
 この世に類を見ないほど並外れた美貌の持ち主でありながら、いたって普通の、明朗活発な町娘の心を持つ彼女にとって、美貌とは、自分と世界を遠ざける障害に過ぎなかった。
 彼女は、とても、美しかった。
 顔面を引き裂くなり、髪を焼くなりして、美貌を醜さで塗り潰してしまおうかと考えたことすらあった。けれど、自分を傷つけるなんてことは怖くてとてもできなかったし、そもそも、美しさを失ったからといって、今までの人間関係が戻ってくるとも思えなかった。むしろ、美貌を失った彼女に対して、あらゆる人間が興味を失くしてしまうのではないか――見知らぬ誰かが贈りつけてきた、美辞麗句だらけの手紙を読むごとに、そんな気がしてならなかった。もはや、美しさ以外の存在価値を認められていないのではないか、と。
 彼女は、とても、美しかった。
 それゆえ、彼女は孤独であった。
 彼女は、とても、美しかった。
 それゆえ、彼女は困惑していた。
 彼女は、とても、美しかった。
 それゆえ、彼女はふさぎこんだ。
 彼女は、とても、美しかった。
 それゆえ、彼女は涙をこぼした。
 彼女は、とても、美しかった。
 それゆえ、彼女は苦しんでいた――。
 彼女は、とても、美しかった。
 彼女は、とても、美しかった。
 彼女は、とても、美しかった……。

 彼女は、とても、美しかった。
 本人の自覚はいざ知らず、周囲の人間から見れば、それはあまりにも明白な事実であった。姿、立ち居振る舞い、声色――すべてが感動的なほどの完成度に満ちあふれ、人々を慄然とさせた。これほどの美が存在して良いのだろうかと、わけもなく不安にさせるほどであった。
 もともと彼女を知っていた者たちでさえ、おいそれと話しかける気にはなれなかった。いや、もしその気があったとしても、あの美貌を目の当たりにしては、それどころではなくなるのだ。美しすぎて――圧倒的すぎて、自然、彼女の言に従ってしまう。本音など言えなくなる。会話をしながら、機嫌を損ねるようなことがあってはならないと、そんな風に思ってしまうようになる。えもいわれぬ不安を感じる。
 だから、彼女から遠ざかる。
 やがて、遠方よりの使者がたびたび彼女を訪れるようになり、日々、豪奢な贈り物が届けられるようになると、人々はさらに加速した。これまで以上の勢いで、彼女から遠ざかったのだ。うかつなことを言えば、何をされるかわからない。噂話だけで王侯貴族をも篭絡(ろうらく)する傾国の美女ともなれば、指先ひとつ、言葉ひとつで、一介の庶民を排することすら可能であろう――。
 いや。
 問題は、そんなことではないのだということに、やがて、人々は気づいた。
 彼女は、とても、美しかった。
 彼女は、とても、美しすぎた。
 かつてこの世に産み出された、ありとあらゆる芸術作品、ありとあらゆる美貌の持ち主を、並べ揃えて差し出してみればいい。誰の目にも、一目瞭然となるはずだ――いかなる美が束になろうとも、彼女ひとりの美に太刀打ちできぬという、厳然たる事実が。
 彼女は、とても、美しかった。
 彼女の前には、あらゆる美がかすみ、裸足で逃げ出した。
 美――それは価値。人間が感銘を受け、賞賛する徳。単純な造形の整いのみならず、あらゆる意味で、人の心を動かすもの――感動させるもの。慈愛、勇気、強さ、賢さ、清らかさ、尊さ、気高さ、技術――人が褒め称えるすべては、美という言葉に集約される。
 そのすべてが、彼女にはかなわない。
 ありとあらゆる美が、彼女という美の前に、価値を等しくされる。
 平等に(・・・)ゼロとなる(・・・・・)
 彼女を見るたび、人々の心には、凄まじいまでの劣等感が呼び起こされた――自分のどんな部分だって、あの美しさにはかなわないということが、如実に分かってしまうから。
 そしてそのうち、だんだん、あくまでも自然に、自分の存在価値が暴落していることに気づくのだった。強すぎる劣等感――その、自己嫌悪・自己否定への反転。自分が持っているすべての美徳が否定されてなお、存在価値を保っていられるわけがない……。
 ああ。
 このままでは――自分は、彼女に殺される。
 彼女の美貌は、他のあらゆる存在をかすませてしまう。自分の価値を信じられなくなる。彼女以外の美を、信じられなくなる。存在の重みが違いすぎるがゆえに、平べったく押し潰されるようにして――
 自分が、なくなってしまう……!
 限りない――自信の喪失。自己の否定。零れ落ちるように、尊厳が損なわれていくほどの。
 嫉妬なんてものではなかった。そんな次元では、もはやなかった――生きるか死ぬか、それほど重大な問題であった。
 彼女は、とても、美しかった。
 その美しさは、年齢を重ねるごとに、いや増していった。
 このまま歳を経れば、彼女は、どこまで美しくなるのだろう。
 少女――幼生。重ねてきた時間という殻を衝き破り、彼女が真に昇華するとき――どれほどの美が、顕れるのだろう。
 人々は、恐れた。
 真の美が顕現するとき、地上の美は、根こそぎ否定されるのではないか、と。そして、己の価値を等しくゼロにされた全人類は、絶望し、生きる意志すらなくしてしまうのではないか、と。ただ一人、彼女だけを除いて……。
 漠然たる不安が、しかし強固に暗然と、人々の胸に去来し、根を張った。日々が過ぎるにつれ――彼女の美しさが増すにつれ――懸念もまた膨れ上がり、行き場を求め……そして。
 やがて、鋭く冷たい殺意と化した。
(殺さなければ)
 誰が言い出したわけでもなく。
 扇動者があったわけでもなく。
 ただ、自然と、誰もがそう考えるようになった。
(殺さなければ)
 倫理。正義。そんなちっぽけなものを考慮することなど、思いつきさえしなかった。自己の尊厳をまるごと否定されるかもしれない瀬戸際に、そんなものが、何の役に立つものか。
 生きるためだ――死なないためだ。自分が自分として生きていくためには、こうする他ないのだ――。
(殺さなければ)
(殺さなければ…)
(殺さなければ……)
(殺さなければ……!)
 恐怖はひっそりと伝播(でんぱ)し、敷衍(ふえん)して、人々の心をひとつにまとめた。種としての――いや、生命としての、存続を求める本能がそうさせた。それは、恐るべき災害の気配を感知した小動物が、一斉に逃げ出すのに似ていた。ただ、方向が逆であるというだけで。
 災害からは、逃げるしかない。
 だが、その災害が、人の形をしているのなら。
 発生する前に、先んじて殺してしまえば、いいのではないか……?
(殺さなければ)
 人々は、知らず、月のない夜を見計らった。
(殺さなければ)
 人々は、知らず、磨き抜いた武器を取った。
(殺さなければ)
 人々は、知らず、仲間を集め歩幅を揃えた。
(殺さなければ)
 人々は、知らず、足音を殺して忍び寄った。
(殺さなければ)
 人々は、知らず、両の眼を血走らせていた。
(殺さなければ)(殺さなければ)(殺さなければ)(殺さなければ)――
 おお。
 聖戦とも言えようか。
 生戦とも呼べようか。
 その日、人々は一丸となって、夜の町を練り歩いた――ただ一人の少女を、抹消するために。空からのぞけば、町全体が静かに蠢動(しゅんどう)する様子が、感じ取られたかもしれなかった――。
 半ば無意識であった。彼らの心は、本能に対する忠実さに満ち溢れていた。
 半ば狂気でもあった。彼らの心に、倫理に対する理性など微塵もなかった。
(殺さなければ)
 月光も曇る宵闇の中、静かに刃が抜き放たれた。人の数だけ、刃があった。人々の中でも、特に種の存続の危機に駆られた者、およそ十数人――老若男女を問わず。子供の姿がないのは、単純に種の存続を担う存在であるという義務感ゆえか、それとも、まだ大人ほど、自己の尊厳に敏感ではないからか。いずれにせよ、不幸中の幸いであった。
(殺さなければ)
 風が()いた。
 夜が鳴いた。
 人々の殺意を敏感に察した獣たちが押し黙ることで生ずる、不気味なほどの静寂という形で。痛いくらいに、胸に響く色をして。
(殺さなければ)
 殺意の群れは、ついに、古び傷んだ一軒の靴屋の前に、到着した。
 ぎらつく瞳が、夜行性の動物のようにきらめいて見えた――。

 彼女は、とても、美しかった。
 だからこそ――無数の殺意が鞘走った。

 殺さなければ。
 サナギが蝶に、なる前に――。

 彼女を目覚めさせたのは、声ではなく音であった。
 数知れない乱暴な足音が家に踏み入り、扉を蹴破って二階の寝室に侵入してくる音色が、叩きつけるように夢を打ち砕いたのだった。
 ハッとして、寝台の上に身を起こしたとき、ちょうど、寝室の扉が破砕される音が響いた。
 思い思い、長さの異なる刃を携えた人々が、恐ろしいまでの無表情で踏み込み、闇の中に彼女の姿を捜し求め――いたぞ、という声すらなく、みなが一斉に一方向を振り向いた。本能――人間というより、生物の。
 星影の中に見えたのは、爛々(らんらん)とぎらつく幾対もの瞳と、刃。
 宵闇にも、いくつか見知った顔があることがわかった。父といつも懇意にしていた、向かいの服屋のおじさん――露店に三つの鍋を並べ、毎日異なるスープをかき混ぜる青年――干魚売りの娘――町の門を護る憲兵――井戸端の生き字引と名高いおばさん――普段、彼女を避けるとはいえ、いずれ気の良い人々が、純粋な殺意に彩られた無色の瞳で、彼女を()めつけていた。
 凄まじい戦慄が全身を走った。
 倒れるように寝台から転げ落ち、半ば恐慌に陥りながら窓に駆け寄った。そうはさせじと、人々は群がりながら彼女へと殺到した。ものも言わず、一丸となって刃を振りかざし、鬼気迫る勢いで肉薄した――。
 殺意の群れは、その刃が彼女の生身に到達する前に、崩れた。
 背後からの衝撃が、人々を一挙に襲い、転倒させたのだ。
 獣の唸るような声を上げて、人々は闇に慣れた瞳で振り向いた。同時に、彼女もまた、恐怖と困惑の最中、思わずそちらに視線をやっていた。
 その先に、父がいた。
 夜遅くまで仕事をしながら、いつしか眠ってしまっていたのか。汚れた作業着姿だった。見慣れた衣服――だが、彼女は、いまだかつて目視したことのない生き物を見るような異質感を覚えた。
 父が。
 気弱な性格ゆえ、なるべく軋轢(あつれき)に関わらぬように生きてきた、父が。
 見慣れた衣服で――見覚えのない姿で。
 今、必死の形相で、床を踏みしめていた。
 邪魔をするなと言わんばかりに、凶気に曳かれた人々が刃を躍らせた。
 もともと運動神経が鈍く、荒事が苦手な父だ。身をひねったところで避けられるはずもなく、急所をかばった腕や脚に、短剣や小剣が次々と刺さった。かと思うと、父は激しい大音声を上げ、襲撃者たちを強引に振り払った。彼女がかつて見たこともないほどの豪力であった。恐怖も忘れ、彼女は、茫然と瞳を見開いた。
 父は、自身に突き立つ刃を抜き放ち、雄叫びを上げながら、襲撃者たちに踊りかかっていった。機械のごとくただ殺意を向けてくる人々とは正反対に、ほとばしる熱い感情を剥き出しにして、暴れるように刃を振るった。瞬く間に服屋の喉が裂け、噴き出る血潮が部屋を走った。
 状況は一変した。
 人々は父を襲い、父は人々を襲った。
 刺しては刺され、裂いては裂かれ。虫も殺せないはずの人が、何度刃にさらされようと、どれだけの血を流そうと、臆することなく、荒ぶり猛って周囲を薙ぎ払っていた。鬼神が宿ったと言われれば、疑いもなく納得しただろう――それほどに、普段の父とはかけ離れた有様であった。そして、対する街の人々もまた、刺されようと斬られようと、臆することなく怯むことなく、立ち向かっていくのだった。その光景は、あまりにも、彼女が普段認識している「現実」からかけ離れていた。
 やがて、声も出せずに縮こまりながら、大きく見開いた眼で状況を見つめ続ける彼女に、父が振り絞るような声を放った。
「娘よ!」
 突きこまれた短剣を右の二の腕に受け止め、左手に握った小剣で、噂好きの主婦の腹部を刺し抜いた。
「私は愚かな父親だった――」
 背後から振り下ろされた肉厚の長剣に、左肩を半ばまで砕き割られながら、振り向きもせず右手の短剣を後ろに叩き込み、干魚売りの娘の心臓を抉り抜いた。
「母の()いおまえに、負い目を感じて。おまえの人ならぬ美しさに、気後れして。かまってやることもできなかった――」
 腰だめに構えたナイフで脇腹を突き刺してきた隣の隠居を、横合いから振るわれた草刈り鎌への楯としてから、口にくわえた短剣を、鎌の持ち主、スープ売りの青年の右目に突き込んだ。
「だから――」だけど。
 四方八方から、刃が迫った。太腿を、脇腹を、肩口を、刃が切り裂き、貫いていった。即死につながる急所だけをかばいながら、父は猛然と刃を奪い、壮絶な反撃を見せた。一振りごとに確実に急所を狙い、がむしゃらに生命を奪ってみせた。
 それは、自身を省みぬ戦い方だった。敵を倒す代わりに、己の血潮を噴き出す戦い方であった。動くたび、父の身体には深手が増えていった。鮮血が流れていった。
 零れていく。
 血潮が、生命が、零れ落ちていく――動きが、鈍くなっていく。
 あ……、と、彼女は声とも呼べない声を上げた。死んでしまう。そんなことをしたら、死んでしまう。動いたら。戦ったら。助からなく、なってしまう。なのに。なのに――。
 なぜ。どうして。なんで、そんなことを。
 震える唇が、声なき問いを紡ぎ出した。それが届いたはずもあるまいが――きっと、偶然の一致に相違あるまいが――血みどろの暗闘を繰り広げながら、父は、答をほとばしらせた。
「それでも、おまえの父でいたいから――」
 血飛沫を全身に浴び、無傷ながらも呆然と、へたりこんでしまった彼女をかばうように、背中を向けて。
 右目を抉られ、左頬を引き裂かれ。
 大量の血を失い、おそらくは半ば朦朧(もうろう)としながらも。
 左目に凄絶なる覇気を宿らせ、吼え声を上げた。
 獣のように――
 人のように。
「私は、おまえを殺させない!」
 その叫びを耳にしたとき、町の人たちに襲われたのだとわかったときに層倍する衝撃が走り抜け、彼女は慄然として悟った――父の形相は、必死のそれではなかったのだと。もっと気高く、もっと尊く、もっと激しく、もっと凄まじい――
 決死の形相であったのだと。
 一人、また一人と、見知った者が、見知らぬ者が、倒れていった。父以外、誰一人として意味ある言葉を発していないはずなのに、まるで、大義が誰かに妨げられていることを察したように、次から次へと刃を携えた新手が現れ、部屋に踏み込んできては、父に討たれていった。部屋はすっかり血浸しになり、血にまみれていない場所など見当たらないほどであった。その中で、普通に考えればもうとっくに動けなくなっていてもおかしくないはずの父は――満身創痍、堪えがたき苦痛に蝕まれているはずの父は――なおも決然と、なおも猛然と、人々を討ち続けていった。そのたびに赤い液体が降り注ぎ、彼女はいつしか、死にゆく身体を数えている己に気づいた。
 二十一……、二十二……、二十三……。
 びしゃり。ぐさり。満足に左腕を奮えなくなった父に、人々は三人がかりで突撃した。腹部をまともに貫かれ、とうとう口から、ごぶりと血塊が吐き出された。同時に、突撃してきた三人のことごとくが、そのまま心臓を刺し貫かれ、絶命した。
 二十四……、二十五……、二十六……。
 びしゃり。ぐさり。憲兵の、研ぎ澄まされた剣が閃いた。父は、使い物にならなくなった左腕でそれを受けると、憲兵の首筋を荒々しく噛みちぎった。聞くに堪えない絶叫が上がったが、彼女は耳をふさぐこともなく、見開いた眼にその死を焼きつけていた。
 三十三……、三十四……、三十五……。
 彼女は、増え続ける死者を数え続けた。信じがたい光景が打ち続き、あたかも夢を見ているような心地であったから。意識が朦朧とし、現実感が極めて薄まっていたから。それしかできないかのように、そうすることを目的として作り上げられた機械のように、数え続けた。
 四十七……、四十八……、四十九……。
 五十二……、五十三……、五十四……。
 やがて――彼女の両目から、透き通った液体がこぼれ、なめらかな頬に付着した血糊の上を滑っては、星屑のごとくきらめいた。
 部屋には、もはや動くものの姿はなかった。
 生命尽き果て、動く力を失ったものばかりが、転がっていた。
 否。
 否――。
 ひとつだけ。転がることなく、倒れることなく――しかし動かなくなってしまった姿が、そこにあった。
 いまだなお、傷口から血をこぼしながら……最後に手にした熊手を支えとした姿勢で……凝然と立ち尽くす、男の姿があった。
 最も良く知る男の姿が、あった。
「五十、五……」
 最後の一人を、彼女は数えた。
 押し殺された声が、嗚咽となって吹き抜けた――。

 その夜、彼女は町を出た。
 顔を隠し、持てる限りの財産を持ち出して、門の守衛に多額の賄賂を渡すと、夜のうちに町を出た。
 あてなどなかった。展望などなかった。けれど、そうしなければならなかった――このままあの町にいては、誰のためにもならないと思ったから。
 涙をこらえて、町を出た。


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