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 月の満ち欠けが、幾度となく繰り返された。
 暦にして半年の後、彼女の姿は、故郷と同じく東西を結ぶ商業ルートの上にありながらも、故郷から遠く離れた、とある町にあった。
 己の美貌を隠すため、砂色の外套を身にまとい、フードを目深にかぶっていた。さらにその上、左目だけを露出させるようにして、顔全体に包帯を巻きつけていた。
 見るからに怪しげな風体であり、普通なら、門の守衛に止められてしまいかねないほどだったが、いかなる守衛も、はかない給料の数か月分にも相当する賄賂を渡されては、門を開けない気にはならなかった。
 旅の途上、金銭を工面するにあたって、かつて求婚者から贈られた品々が役に立ったのだ。彼女は、持ち出せた品々のすべてを路銀に換えたおかげで、いくつもの町を通り抜けることができたのだったが、やがて、あと2つ3つ町を抜ければ賄賂で底をつきかねないほど、路銀が少なくなった。彼女が旅を止め、ひとまずこの町に住もう、と考えたのは、旅の疲れを感じていたためのみならず、金銭的な理由も強かった。
 町で暮らすと言っても、宿の厄介になるのでは金がかかりすぎる。家を借りるか、住み込みで働かせてもらう必要があった。彼女は、借家と仕事を同時に探すことにした。
 しかし、顔を包帯で覆った姿は極めて異様であり、どの職場でも歓迎されなかった。ひどい火傷を隠すためだと嘘をついたが、それでも、いい顔はされなかった。靴屋に勤めることができれば良かったのだが、どの靴屋にも断られると、定食屋、服屋など、職を選ばず門を叩いた。
 町に着いて十数日が過ぎたその日も、彼女は朝から仕事を探していた。
雰囲気のよさそうな宿屋を訪れ、賃金は少なくてもいいからどうか働かせてもらえないか、とおかみに交渉を持ちかけた。おかみは彼女の「事情」に同情的な様子を見せてくれたが、迷っているらしい風情は、ありありと見て取れた。当然だった。火傷を負ったというのは嘘で、本当は何か罪を犯して逃れてきたのかもしれないのだ。やすやすと信用できるはずもないことぐらい、彼女にも分かっていた。それでも、必死に頼み込んだ。
 転機が訪れたのは、そのときだった。
 宿に一人の少年が訪れ、親しげに、おかみに話しかけてきたのだ。  明朗快活な風をまとった、育ちのよさそうな少年だった。背丈は彼女と同じくらいで、顔立ちもまだ青年の域には遠く、おそらく年下であると思われた。服装は地味な庶民風だが、ほつれを縫った跡がほとんど見当たらなかった。少年の持つ、余裕に満ちた雰囲気と照らし合わせると、どこかの貴族なり富豪なりの息子が、お忍びで宿屋を訪れたように見えた。
 ただ、それにしては、彼の持つ「余裕」に高慢の色が見られないのが、少し意外ではあった。彼女の元を訪れる富豪や貴族は、本人も、代理となった者も、優越感から来る自信と余裕を惜しげもなく振り撒いていたものだが、少年には、そのような要素がまったく見られなかったのだ。彼の発する余裕は、自己を誇るがゆえのものではなく、他の誰かを気にかけるがゆえのそれだった。
 おかみと軽い世間話をしてから、少年は彼女に視線を向け、不思議そうに小首を傾げた。顔の包帯を見ても、驚いたり嫌がったり哀れんだりといった特殊な反応を見せない様子に、彼女はどきりとした。おかみが代わって事情を話すと、そこで初めて、少年は驚き以外の色を浮かべた――憐憫でもなく、同情でもない、労いの色を。
 大変だったね。穏やかな微笑で、少年は言葉を発した。慣れた仕草だった。けれど、どこかガラスのような、危うげな脆さが感じられた(この地、この時代、ガラスは「強度の足りない高級品」として知られていた)。
 ちょっと待ってて。少年は風のように身を翻すと、敏捷に宿を出て行った。おかみは、安堵したように告げた――あんた、ひょっとしたら、どうにかなるかもしれないよ。彼女が仕事を見つけられる可能性と、彼女を雇うかどうか悩む必要がなくなる可能性――二重の安堵だった。自分の都合を第一に考えながら、それを脅かさない範囲なら他人を思うことのできるおかみを、彼女は好ましく感じた。他人の都合を考えない者よりも――他人の都合しか考えない者よりも、失いにくい、絆だから。
 やがて、戻ってきた少年は、面接を受けてみないか、と、満面の笑みで持ちかけてきた。その面接とやらに受かれば、少年の暮らしている屋敷で女中として雇ってもらえるかもしれない、というのだった。
 我が事のごとく喜ぶ少年の様に、若干の困惑を感じつつも、彼女は首を縦に振り、手を引かれて宿を出た。

 門に対してコの字型となる、三階建ての屋敷は、もう何百年も前から地に根付いているような、ずしりとした迫力を感じさせた。
 どこの馬の骨がやってきたのかと、じろり、睨みつけられた気がして、彼女は思わず首をすくめたが、生まれてずっと屋敷で暮らしてきた少年にとっては、その威容もどこ吹く風であった。おかまいなしにずんずん進み、玄関脇のごわついた絨毯で靴の汚れを落とすと、さあ、と彼女を招き入れてくれた。その絨毯は、汚れ落としのためだけに用意されているにも関わらず、用が終わるなり、女中たちがすぐにそれを片づけて、綺麗なものを代わりとした。女中が必要になるわけだ、と、彼女は半ば呆れるような気持ちで理解した。
 年月の重みを感じさせる割には、外観も内観も、ちっとも色あせた印象のない屋敷だった。何度も改修を重ねてきた上に、使用人たちが、常に清潔に保つ努力をしてきたおかげだろう。奇妙な形をした壷や、壁にかけられた鹿の首の剥製など、この屋敷の威容と気高さを引き立てるために用意された数々の調度品も、すべて丹念に磨き上げられていた。隙のない、手抜きのない、整然たる美しさが、そこには漂っていた。
 高価な品々なら腐るほど贈られてきた彼女だが、それらをこうも見事に飾り立てた様を見るのは初めてだったので、知らず、胸が感動に熱くなった。調度品に財力を傾けることについて、彼女は否定的な考えを抱いていたが、適当に飾るのではなく、芸術的に配置し、丁寧に維持するからこそ、この屋敷の重量感が生まれているのだと、納得せざるを得なかった。しかし、そのことに気づくと、こんなところで本当に働けるのだろうか、という不安がますます膨らんでいった。
 案内されたのは、小ぢんまりとした部屋だった。住み込みで働く使用人にあてがわれた私室のひとつだろう。そこには、怜悧そうな細身の壮年が、黙然と椅子に腰かけていた。この家の使用人雇用を一手に担う家令だと紹介し、少年は部屋から退出していった。
 家令の印象を一言で言えば、黒であった。
 肌の色は白く、頭髪は金だったが、それを打ち消してしまうほどに、着衣の黒さが際立っていた。漆黒一色というわけではなく、要所要所に金や銀の刺繍があしらわれているが、それすらも、衣の黒さを強調するためにあるかのようだった。家のために、あらゆる闇を、あらゆる穢れを、一身一心に引き受けることを、そして、慎ましく主の影であることを、無言のままに表明する、誇りある黒。汚れることを前提にしていながら、その黒さゆえに、汚れが目立たない――そんな黒であった。
 家令は、余計な小言は一切言わず、ぴしりと剣の切っ先を突きつけるように、質問を放ってきた。
 家事は得意か、特殊な技能はあるか、といった能力面のみならず、もちろん、顔の包帯についても触れられた。ひどい火傷を負ったから誰にも見せたくない、と告げると、家令は、そうか、と言っただけで、それ以上、追及してこなかった。鋭く突っ込まれるだろう、と覚悟していたので、かえって肩透かしを食らったような気分になった。
 一通り話をすると、家令は突然、明日から住み込みで働くように、と無造作に言い放った。ぽかんとなる彼女に、彼はじろりとした視線を向けて、釘を刺してきた。
 富める者がその地位を高め、維持するには、その度量の広さ、器の大きさを示す必要がある。つまり、家の名誉を保つ上で、体裁が重要になってくるということだ。特にこの家は、名門貴族の出身などではなく、もともとは一介の商人であった。積極的に、良い評判を広める必要があるのだ。
 ひどい火傷を顔に負い、行き先を失った少女を雇うことは、美談として語り継がれるだろう――彼女を雇うのはそのためだ、ということだった。家令は、一切の感情を交えず、淡々と説明した。もちろん、だからと言って、能力・技能面での妥協を許されることはないだろう。女中として平均以上に働くことを前提としての話だ。
「それに――」一瞬、表情が揺れた。  その揺らぎに鋭敏に気づいた彼女の様子に、彼もまた、気づいたのだろう。取り繕うような無表情さで、あの少年のためでもあることを、家令は告げた。
 意味が分からず、彼女は首を傾げたが、家令が説明してくれることはなかった。弛まず仕事に励め――そっけなく言って、彼女を掃除係に任命した。
 こうして、彼女の新たな生活が始まった。

 割り当てられた仕事は、それほど苦痛を伴うものではなかった。普段は他の女中の手伝いとして雑役をこなしつつ、屋敷全体を掃除する――今の彼女にとっては、驚くほど平穏な日々であった。自由時間はあまりなかったが、住み込みで、お仕着せを与えられての仕事となれば、僥倖と言っても良いほどの待遇の良さであった。昔から一日のほとんどを家事に費やしていた彼女にとって、自由時間を与えられても特にすることがなかったので、ありがたいばかりだった。
 勝手は違うとはいえ、もともと彼女は、家事を一手に担っていたのだ。広大な屋敷を効率よく丁寧に掃除するコツを、すぐに掴んだ。
 包帯で顔を隠している、という特徴を不気味がって他の女中が近寄らず、そればかりか何やら陰口を言われているようだったが、彼女にとってはどうでもいいことだった。美貌を恐れられ、殺意を向けられることに比べれば、はるかにマシな環境だと思えた。
 「襟度の広さを示す」ために雇われた身ではあるが、だからといって、特別な待遇を受けるわけでもない事が、彼女にはありがたかった。普通であること――それは、彼女が切実に望んでやまなかったことだから。
 望んで、叶えられなかったことだから。

 屋敷で勤めるようになって、しばらくしてから知ったことだが、毎日屋敷全体の清掃を二度行うというのは、少なくともこの辺りでは、特殊な習慣であるようだった。庶民は、家を毎日掃除する余裕など持たないし、貴族富豪の類であっても、日に一度、全体を掃除する程度がせいぜいだ。実利を優先し、全体清掃を二日に一度と決めている家や、一日に掃除する範囲を分割している家も多いという。
 女中たちが仕事の合間に交わす会話から察するところ、どうも屋敷の主――あの少年の、年かさの兄――が、極端にきれい好きであるためらしかった。彼の部屋の掃除を任される女中は、埃や汚れが見つかるや否や、降り落ちる雷鳴のごとき勢いで怒鳴り散らされるため、必至になって責務をこなすという。「ちょっとしたことですぐ怒鳴る」と、女中たちの間では評判が悪いようだ。
 彼女も、主に対してあまり良い印象は持っていなかったが、悪い人間だとまでは思っていなかった。
 主と初めて会ったのは、屋敷に入った翌日のことだった。正午を少し過ぎた頃、教わった通り、軽く湿らせた雑巾で丁寧に廊下の床を拭いていた彼女に、主は大股で近づき、おい、と尊大に声をかけてきたのだった。
 作業を止めて向き直り、深く頭を下げた彼女に、顔を上げろ、という命令が降り落ちた。
 言われた通りにすると、蔑(さげす)む価値もないものをあえて蔑むような、いかにも底意地の悪そうな視線を浴びせかけられ、思わず怯んでしまった。  豪商である父親の跡継ぎと目され、すでに重要な仕事をいくつも任されている主は、ようやく二十歳を迎えたところだ。面差しの繊細さは、あの少年に通じるところがあったけれど、暗い疑念の膜に覆われた眼差しは、決して似つかぬものだった。彼には、自己を誇る余裕の風すら、吹いていなかった。
 おまえが、顔を焼けどしたという女中か――と、主は薄い笑みを浮かべた。だからと言って同情なんてしてもらえると思うな、とでも言いたげな風情であった。
「本当に火傷なんだろうな? ちょっと、包帯を取ってみろよ」
 火傷であろうと、そうでなかろうと、どの道そうするわけにはいかないことを、知った上でのからかいだった。申し訳ございません、どうかご勘弁ください――頭を下げる彼女の耳朶に、ふん、と鼻の鳴る音が届いた。  なんでもいいが、掃除だけはきっちりするんだな――強く念押しをして、彼はずかずかと廊下を渡っていった。その姿が見えなくなったところで、彼女はようやく顔を上げ、思わずため息を漏らした。ずっと、息の詰まるような心持ちでいたのだ。それは、嘘をついているという罪悪感のためというより、主が全身から発散する空気のせいであった。
 一見、わけありで入ってきた女中を、ちょっと軽くからかっただけ、という感じだったが、それにしては重厚な威圧感を覚えた。自分に対して裏心を持ってはいるのではないかと、常に警戒している――そんな、弛みのない雰囲気だった。
 追い立てられるような、切羽詰った緊迫感が、常にその身を焼いているように、彼女には思われた。声をかけてきたのも、それを忘れたいからか。
 重責を背負う立場にあるだけに、そうせざるを得ないのかもしれない。生き馬の目を抜く商人の世界では、誰に裏切られ、誰に弄ばれるか分からないから、気を尖らせているのかもしれない。潔癖症も、その副産物なのかもしれない。彼が女中に厳しく接するのは、彼自身が、己を厳しく律しているせいかもしれない――。
 彼女は頭を振った。一度出会って、少し話しただけで、彼の内面などわかるはずもない。らちもない想像を、膨らませるべきではなかった。
 ただ、張り詰めた主の雰囲気には、どことなく危うげな匂いが感じられて――それが、彼女には、妙に気にかかるのだった。

 彼女にとって、最も安らげる時間は、少年と話しているときだった。
 少年は、暇を見つけては、よく話しかけてきた。
 もともと、使用人にも頻繁に声をかける彼だ。女中の間での人気も高く、中には、やがて愛妾として見初められることを狙っている者もいるようだった。貴族の子女が、世間勉強などの目的を兼ねて、親交のある屋敷に女中として出向き、暗黙の公認の元に屋敷の主と関係を持つことは、あまりないことではない。新参者の商人の屋敷ということもあって、この家に雇われた女中はみな、平民であったが、玉の輿を狙うという夢は、壮大ではあっても、非現実的ではなかったのだ。少年が、彼女を見初めて女中としたのだと、他の者たちが思うのも、無理からぬことではあった。
 少年が、彼女に話しかける頻度は、他の女中と比べて明らかに多かったし、話をする時間も長かった。少年としては、自ら連れてきただけに、ちゃんと申し分なく暮らせているかどうか、責任のようなものを感じているようだった。ただ、そればかりではない――彼女自身に対する興味の風情も、確かに、感じられないわけではなかった。
 特に、少年の部屋のテラスを掃除するときに、よく話をした。少年の部屋の掃除という役目が彼女に回ってくるのは、いまや、十日に一、二度という頻度であったが、少なくともそのときは、少年は部屋を出ず、掃除をする彼女に話しかけることを好んだ。
 彼女の素性について訊かれることは、あまりなかった。あからさまにわけありの風情を醸し出しているだけに、聞き辛かったのだろう。それでも、全く関係のない話題から、彼女の好みや価値観を聞き出そうとする辺り、興味は尽きない風であった。
 代わりに、少年は、自分のことをよく話した。
 少年は、この家の三男坊であった。
 長兄と次兄は、それぞれ優れた商才を示したという。長兄は家を継ぎ、次兄は重要な支店を任された。ゆくゆくは、少年も、次兄と同じような道を歩むはずだったが――少なくとも少年自身が語る限りでは、彼には、致命的に商才がなかった。
 正直すぎ、誠実すぎたのだ。末っ子という立場ゆえ、寵愛を受けやすかったことが災いしたのか、少年は、人を疑う事の苦手な人格に成長してしまっていた。
 腹を探り合い、裏をかき合う商業の世界において、かのごとき誠実さは仇となる。それが知られて以降、周囲の人々の、少年に対する認識は変化した。「育ててやったのに、使えない奴」――冷たい視線が、集中した。
 両親も、兄たちも、一切の期待をかけなくなった。いないもののように扱い、あるいは蔑み見下した。今はまだ、成人に至らぬがゆえ、家に置かれているが、成人すれば、間違いなく傀儡として扱われるだろう。彼自身は何もすることなく、名目上の担当者として認知され、商家の三男坊という立場だけが利用される。それは、彼自身に何の価値も認められていないということだ。
 少年は、自信を喪失した。
 誠実にして正直な性格を変えようと試みても、元がその性格なればこそ、無理に変われるはずがなく、無用な苦悩を増すだけだった。家族は無為な努力を嘲笑い、「おまえにできることなどない」「いらん手間を焼かせるな」と嘲弄を投げかけた。
 もはや、この家において、自分の存在する意義はないのだと――彼は笑った。自嘲も、自棄も、とうの昔に捨て去った、抜け殻色の笑顔だった。
「だから――君を助けたくなったのかも、しれない」
 何もできないから。せめて、こんな自分が誰かの助けになれるのなら、そうしないわけにはいかなった――。
 彼が彼女を気にかける理由が、それだった。
 少年のためでもある――自分が家令に雇われた理由のひとつが、今、はっきりと理解できた。
 少年は、完全に自身を諦めながらも、できる限りのことを尽くすことに、全霊を傾けていた。その様は、より大きな事を成し、より目覚しい成果を顕す彼の親類から見れば、取るに足らない、無駄な努力でしかなかった。忙しい日々を送る主は、同じ屋敷に住んでいてさえ少年とすれ違うことがあまりなかったが、会えば必ず、彼の才能の無さを蔑み、彼の存在する価値を否定した。少年はただ萎縮し、畏まり、甘んじて兄の鬱憤晴らしに耐えるのみであった。話を聞く限りでは、主だけでなく、少年の親類のほとんどが、似たような反応をするようだった。
 だが、少年の商人としての才能に、親族ほど興味があるわけでもない使用人たちからしてみれば、彼は良い主であった。兄たちならば、彼らを使い捨てることに何のためらいも覚えまいが、少年は、常に彼らを気にかけていた。健康に留意し、待遇条件をこまめに確認し、よく話しかけ、顔や名前を覚えていた。少年は、そのくらいしかできないからそうするのだと、困ったように笑うだろう。それでも、使用人たちが少年を慈しむのは、当然であると言えた。
 使用人たちの中では、家の者たちに最も立場が近い家令もまた、例外ではなかったということだ。彼は、一見、酷薄なまでの冷徹さを醸し出しているが、その実、融通の利く管理者であった。使用人たちの意見にきちんと耳を傾け、道理であればうなずき、理不尽であればそのことを指摘した。家の事情をおもんばかりながら、使用人たちの管理にも気を配る、まさに縁の下の力持ちと言うべき彼は、少年の境遇についても、常に気にかけていたのだ。だから、少年が誰かを救うことで自らも救われようというのなら、手助けをしてやりたいと――そう思って、彼女を雇ったのだろう。
 使用人たちにこれほど慕われていてもなお、少年の魂は、絶望を通り過ぎざるを得なかった。最も近しい者たちの理解を得られなかったがゆえに――最も近しい者たちに否定されてきたがゆえに。
 少年は、慰めも、哀れみも、同情も、求めようとはしていなかった。ただ、彼女が――自分のできる範囲の行いで救うことのできた相手が、幸せに過ごせているという事実だけが、彼の心を救っていた。彼は彼女に似ていた――自らのせいで、あらゆる絆を失ってしまった彼女は、彼女がいることに救われている彼がいることで、自分自身も、救われる気がした。傷を舐めあうというよりも、互いの傷が、互いの傷を埋めようとしているようだった。
 そのことを、少年も、薄々、察していたのだろう。テラスの掃除を終えて、部屋の中へと戻ってきた彼女に、彼は、穏やかな笑顔を浮かべ、こう尋ねてきた。
理想郷(シャングリラ)――って、知っているかい?」
 聞かぬ単語に、ゆるゆると首を振ると、彼は丁寧に説明してくれた。
 大いなる苦難の彼方に揺らめく、どんな罪を、どんな穢れを、どんな悲しみを背負った者であっても、穏やかに、暖かに、幸せに暮らすことのできる、理想の土地。古来より語られ続ける伝承のひとつだという。
「大人になったら、そこを探してみようと思うんだ」
 衝撃的なことを、少年は告げた。てっきり、彼は傀儡となることをも諦めて、この家の人間として生を終えると思っていただけに、彼女はびっくりして、周囲に誰もいないことを再確認せずにはおられなかった。ある意味では、反逆と呼ぶべき言葉であった。
 その反応がおかしかったのか、家を捨てるわけではないよ、と彼は笑った。
「普段の暮らしの中で、こっそりと、情報を集めてみようと思う。伝説だからね。興味はあるけど、あるとは限らない」
 でも――、もしも。
 理想郷に続く道が、確かにあるとしたら。
 少年は、微笑んだまま、瞳を真摯の色に塗り替えた。
「君が――一緒に来てくれるなら、ぼくは嬉しい」
 女中が聞いていたら、愛の告白だと確信したことだろう。だが――そう捉えるには、瞳に輝く炎が、誠実に過ぎた。似た傷を抱える者として――互いの傷を癒しえる者として――将来、互いを愛するかどうかは別として、一緒にいてはもらえないか、と。彼は、そう望んでいるのだった。彼女には、それが分かった。
 だから――同じくらい誠実に、うなずいた。
 理想郷が見つからなくてもいい、と思った。
 いつか――、共にいることで、ふたつの傷が、癒える時が来るのかもしれない。
 そんな夢すら、見られるのだから。

 その日も、ふたりは話をしていた。
 月冴ゆる、冬の夜半。外気は冷たく、肌を切りつけてくるようだったが、あまり気にならなかった。屋敷に満ちる熱が、知らぬ間に伝染していたのかもしれなかった。
 パーティーが終わったところだった。
 主が懇意にしている商人、役人、貴族といった者たちを集めての、日々のつながりを感謝する祝いだった。ホールに、普段は使われることなく仕舞われている長机がずらりと並べられ、わざわざ雇った料理人たちの手になる料理が、その上を彩った。使用人たちにとっては、めまぐるしいほどの忙しさと、失敗するわけにはいかないという重責に追い立てられる時間であった。
 パーティーがお開きとなってからも、使用人たちの気が休まるまでは長かった。皿や机、椅子などを元通りに片づけ、広いホールをきちんと掃除して始めて、使用人たちの労いの時間が訪れる。心得たものと言うべきか、家令は、余った料理を大皿に集め、余った酒でささやかな宴会を開く許可を、主から取りつけていた。準備と比べて、気が重くなりがちな後片付けという作業も、後の宴会を思えば、熱が入るというものだった。
 すでに、ホールの片隅では、普段から使用している大卓の上に料理と酒を載せて、宴会が始まっているが、彼女の姿はそこにはなかった。生来の几帳面さゆえに、つい、念入りに掃除をしていたのだ。月光に抱かれた一階のテラス、その手すりを雑巾で拭いていたところに、少年が現れた。
 行かないの、と彼は尋ねた。テラスの掃除を終えてからにします――彼女の答えに、ふうん、と返事をして、テラスに置かれた丸い木椅子に腰かけた。
 誰に指図されるまでもなく、少年は使用人たちに混じって働いていた。兄たちからすれば嘲弄の的であろうが、少年にしてみれば、少しでも自分のできることがあるなら、せずにはおられなかったのだ。彼の事情を察しているためか、使用人たちも、強く止めようとはしなかった。後片付けまで手伝ったのだから、少年が宴会に混じったところで、追い出されるいわれはないし、彼自身、使用人たちとの宴会を楽しみにしているようだったが――彼女が仕事を終えるまで、動いてくれそうにない。
 多少の汚れには目をつぶって、早めに終わらせよう。そう決めて、熱心に手すりを拭いていた――そのときだ。
 不意に、手すりに翳りが落ちた。
 振り向いた彼女が目にしたのは、薄い笑いを浮かべた主の姿だった。
 パーティー中、挨拶回りに忙殺されながら、勧められるままに酒盃を空けていただけに、幼子のような紅顔となっていた。歩み寄ってくる動きも、微妙にふらついており、酔いが回っているのは明らかだった。世界のすべてを警戒し、常に気を張っている彼にしては珍しかったが、さしもの主も、大量の酒を飲まざるを得ないとあっては、自己管理に気を配ってばかりもいられなかったのだろう。
 兄さん、という少年の驚きの声を無視して、主は、じっと彼女に視線を注いだ。特に――、左目と口元以外を覆い隠す、その包帯に。
「おまえ」酒臭い吐息に、わずかな苛立ちと悪意が醸成されていた。「姿を、見せたな」
 端的な物言いだったので、一瞬、なんのことかわからなかった。
 彼女の扱いは、いささか微妙なものであった。家令が最初に言った通り、この家の「襟度を示す」ためには、彼女を働かせている、という美談は有効である。しかし、ことさらにアピールしては逆に反感を買いかねないし、それに、貴族も訪れるパーティーの場で、顔を隠した使用人の姿を見せることは、避けるべきだった。どんな事情があれ、奇異なものは奇異なのだ。彼女の姿は、パーティーを楽しむ賓客たちの高揚に水を差しかねないものだった。だから、パーティー中はできるだけ、裏方に徹するように、と家令に申しつけられていた。少年は不服を申し立てようとしたが、それを制したのは彼女だ。人の権利が平等だという概念などないこの時代、この風体で雇ってもらえているだけありがたい、というのは、紛れもなく本音であった。
 とはいえ、パーティーは忙しかった。志方がなく、少しだけ、できるだけ気づかれないようにしながら、皿を手にしてホールを移動したのだ。主の目に、それが留まってしまったらしい。迂遠な皮肉の言い回しを好む彼が、こうも直截的に告げてくるあたり、やはり、飲酒が強く影響しているようだ。普段、自己を強く取り繕っているだけに、それが剥がれた今、別人のような荒々しさが、瞳の奥で渦巻いていた。
 ごめんなさい、と、彼女は頭を下げた。
 主の反応は、なかった。
 不吉なほどの静けさの中、やがて、兄を制するつもりか、おずおずと少年が近づいてくる気配がして……次の瞬間、「兄さん!」息を呑んでの戦慄の声が上がった。彼女もさすがに顔を上げ――。
 月光を照り返す刃を、見た。
 目の前で、主が表情も動かさぬまま、護身用のナイフを抜き放ち、振り上げていた。
 その瞬間、彼女の脳裏には、過去の凄惨なる情景が――閃く刃が、しぶく血潮が、ほとばしる苦悶の声が、くずれおちる人影の儚さが――めまぐるしいまでの勢いで蘇り、屍のごとく身体が硬直した。
「気になって、仕方がないんだ」
 囁くような声で、主は嘲笑った。伸ばした左手が、動けない彼女の包帯を握り締めた。強引に引っ張られて、思わず前に――主の方へと重心が傾いた彼女の顔に、主はゆっくりと、手にしたナイフを近づけた。
 酔いに任せて、包帯を切り裂こうというのか――あるいは、腹いせに刃を突き立てるつもりなのか。どちらとも取れる様であり、どちらでも納得できる様であった。そして、どちらにせよ、彼女の身体は動きようがなかった――。
「兄さん!」
 常ならぬ語勢の強さで、少年が、猛然と飛びかかった。兄に対する萎縮など、完全に吹き飛んでいるようだった。両手で兄の右手を抑え、ナイフを遣わせまいとした。自らを邪魔するその動きが、自らに逆らうその反応が、酔った主の細められた眼に禍々しい灯火を宿し、自律の糸を千切って割いた。
 うるさい、という甲高い叫びが、肉に刃の突き刺さる音を打ち消した。
 振りほどこうと、したのだろう――主は、右腕を大きく真横に揮っていた。少年の両腕が、主に上から強く兄の腕を押さえつけていたため、自然、下方に向かって揮う形となった。それが、災いの元であった。
 ナイフは、少年の腹部に深々と、突き立っていた。
 濁った呻き声を漏らして、少年が膝を折った。あどけない顔が、反射的に傷口を向いてから、兄を仰いだ。驚いた様子はなかった。まあ、そうだろうな――とでも言うような、落ち着き払った風情だった。兄に刺される未来など、予想しきっていて、驚きようがないようだった。
 対して、主の反応は劇的だった。慣れぬ手ごたえに、彼女を見ていた瞳が、怪訝そうに細められ――右方を見やって、愕然となった。偶然にも弟を刺し抜いてしまった驚異の色が、徐々に、蒼醒めるほどの恐怖へと変色していった。いくら不肖の弟とはいえ、親類を殺害したという事実は、決して明るみに出せるものではない。あるいは、彼の未来の輝きを、まったき闇色で塗り潰すかもしれぬ。その事実を悟ったのだろう。仰向けに倒れていく弟を目の当たりにした主は、動揺から来る悲鳴を漏らし、よろよろと後ずさった。その拍子にナイフが抜けて、夜空にたゆたう月をも汚さんとするかのように、血しぶきが舞い上がった――。
 そこから先、彼がどうしたのか、彼女は覚えていなかった。というか、知らなかった。そんなことは、どうでもよかったからだ。
 この中で、最も戦慄し、恐怖していたのは、彼女であった。
 自らをかばって死んだ父の姿が、わけもなく閉ざされた右目のまぶたに浮かび、左目に映る少年の姿と重なろうとしていた。その幻影を打ち払うように、大きくかぶりを振って、彼女は、膝を打ちつけるような勢いでしゃがみこんだ。そのとたん、倒れた少年の流す血液が、お仕着せの裾を黒く侵食し始めた。
 水の沸騰するような音がした。目をやれば、少年の口元から、闇の塊が吐き出されていた。窒息を恐れて、彼女は慌てて少年の身体を横に寝かせた。
 絶望的な速さで、血だまりが拡大していた。彼女は焦った――早急に対処しなければならない、そのことばかりが脳裏を占めて、誰かを呼ぶことすら忘れていた。もっとも、その必要はなかったかもしれない。転がるようにしてホールに戻った主の姿は、遠からず、使用人たちに発見されるのだから。
 とにかく傷口を圧迫し、止血する必要があった。しかし、位置が位置だけに、手で押さえようとしても、押し退けるような勢いで血が溢れてきたし、すでに体勢が仰向けでない以上、両手で抑えるのは困難だった。何か、布状のものを巻きつけなければ――そこまで考えたとき、半ば反射的に、彼女は顔の包帯をむしりとっていた。それでよいのか――という疑問は、その後に浮かんできた。隠し通さなければならないはずの相貌が、はっ、と月光に醒めあがった。思わず呑みこんだ吐息が、寒気のあまり、喉の奥で氷の塊と化した。
 少年の瞳が、大きく丸く見開かれ、その様を見つめていた。  そこには、怯えきった少女の美貌が揺らめいていた――。
「なんだ……」
 少年が、笑った。畏怖もなく。驚愕もなく。陶酔もなく、熱情もなく。ただ、純粋な憧れを声色に乗せて――血まみれのまま、微笑んだ。
「きれいじゃないか……」
 濁流が――、彼女の心を呑み込んだ。
 彼の言葉は、戦慄にも似た衝撃となって、彼女を打ちすえていた。
 少年には、彼女の美貌に畏怖する理由がなかった――彼女という美に、打ちのめされる道理がなかった。
 彼はすでに、存在意義を否定されていたのだから。
 否定し、否定され、失い、奪われて――その事実を受け入れて、それでもなお生きてきたのが、生きようとしてきたのが、彼なのだ。
 だから――彼は純粋に、彼女の美を賞賛することができたのだ。彼女の美の圧倒的過ぎるあまり、己が存在価値を否定されて絶望することがなかったのだ。広い世界、たくさんの人々の中で、これまでの彼女の半生の間に、唯一……彼、だけが。
 心を呑み込み、押し流していった濁流が、噴き上がる溶岩のごとく、胸の奥からこみあげて――彼女のまぶたを熱く濡らした。
 求めていたものが――求めて、得られるはずがないと思っていたものが。間違いなく、疑いようもなく、そこにあり……そして、今まさに、失われようとしていた。
 自分のせいで。
「死んでしまう……」
 声が、こぼれた。燃え尽きるような声音だった。手にしていた清潔なハンカチの、まったく使っていない部分を広げ、傷口に押し当てて、その上から包帯を巻きつけながら――彼女は、ほとばしり出る願いの言葉を、少年に投げかけていた。
「死なないで……どうか――」
 濁流は、ついに脳髄までかき回そうとしていた。脳が火照り、意識が朦朧となった。かすむ視覚、閉ざされる聴覚とは裏腹に、どこまでも鋭くなりゆく触覚が、業火の熱さを訴えていた。手が、焼け落ちるかと思われるほどだった。それはまさしく、生命だった。人の身を衝き動かす灯火が、どうしようもないほどに、零れ出ていた。刃のごとき外気の冷たさが、命の熱さを際立たせていた――。
「理想郷――」
 血の濁りを噛み砕きながら、彼が言った。はっとして我に返る彼女に、力強く、少年は言った。
「理想郷に――行けたなら――君は――」

 ホールに倒れこんだ主の異変に気づいて、慌しくテラスに踏み込んできた使用人たちが、やがて、少年の身体を寝台へと運んでいった。
 うつむいて、長い髪をざらりと垂らしながら嗚咽する彼女の顔を、結局、誰も、目の当たりにすることはなかった。
 やがて、少年の訃報を誰もが知るところとなり、死因は虚偽によって隠された。真実をその目で見た当人でありながら、彼女にとっては、どうでもよいことだった。ただ、屋敷から出るよう言い渡されたとき、今までよりもきつく深く、刻みつけるように顔を包帯で覆った彼女は、一言だけ、つぶやいた。
「五十六……」
 残り火のような、声だった。



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