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 サクリ、サクリと、砂が鳴く。革のブーツが、砂を割る。
 果ての知れない砂の海――彼女は黙して、そこを行く。
 苦難の地(ゲッセマネ)――
 まさしく、そう呼ばれるに値する土地であった。
 悠久無尽に広がる砂の世界。じりじりと空気すら焦げつかせる熱波により景色は歪み、時として、あらぬ幻影すら見せるという。熱砂絡みつく足取りは、次第に重みを増し、砂にもつれて灼熱の中に寝転べば、もはや立ち上がる気力さえ残ってはおるまい。
 そこを、彼女は歩いていた。
 理想郷(シャングリラ)
 苦難の地を越えた先にあるという、平等にして自由、優雅にして素朴、美麗にして安寧(あんねい)なる、理想の地。
 そこを、彼女は目指していた。
 それ以外、目指すべき場所がなかった。
 持てる財産のすべてをなげうって、情報の収集と、準備にあてた。彼女に苦難の地を教えた男は、理想郷があると限ったわけではない、苦難の地を超えきってなお、戻ってきた者がいないだけだ――そう言って、どうにか彼女を翻意させようとしたが、彼女の決意は強固に過ぎた。他に、何も、なかったのだから。
 どれほど歩いたか――どれだけ歩くのか。苦難の地に入り、経過した月日など覚えていられる余裕はなかった。
 暑く、寒く、厳しく、重かった。
 辛く、苦しく、寂しく、狂おしかった。
 それでも彼女は、歩き続けた。
 それ以外に何もできなかった。
 やがて、引き返す人影と出会った。彼女同様、砂色のフードと外套で身を覆った男は、幽鬼のごとき痩せこけた面持ちで、彼女をいざなった。これより先に進んだところで、どうせ辿り着けやしないだろう、と。このまま引き返し、もっと違う方法で人生をやり直そう、と。
 彼女は応えず、なおも進んだ。
 やがて、倒れ伏した人影と出会った。砂色のフードをはだけ、恐るべき日射に顔面をさらす女は、まぶたを上げる力さえないのか、瞑目したまま彼女をいざなった。もはや引き返そうにも、先へ進もうにも、水も食糧も足りるまい、と。ならばここで足を止め、大地に転がり、すべてが終わる時を静かに待とう、と。
 彼女は応えず、なおも進んだ。
 進むほどに、頭にもやがかかるような気分だった。身体中が熱っぽく、自らの荒い吐息だけが耳に届いた。それでも歩いた。歩き続けた。足が疲労を訴えようとも、脳が休息を求めようとも、すべてを無視して、歩き続けた。
 やがて、食糧が尽きた。食事を採ることができなくなった彼女は、食糧袋を捨て、その分の時間を歩くことに充てた。
 やがて、水が尽きた。水分を摂取できなくなった彼女は、水袋を捨て、その分の時間を歩くことに充てた。
 やがて、眠気が来なくなった。眠る機能を失った彼女は、野営道具を捨て、その分の時間を歩くことに充てた。
 まるで、歩き続けようとするために、余計なものを削ぎ落としていくようだった。
 飲まず――喰わず――眠らず。
 語らず――聞かず――喚かず。
 飢えながら――渇きながら――疲れながら。
 歩いて、歩いて、歩き通した。
 一歩。
 一歩。
 確かめるように、一歩。踏みしめるように、一歩。
 揺らがず、怯えず、休まず、止まらず――それしかできないかのように、そうすることを目的として作り上げられた機械のように。
 歩き続けた。
 すでに、まともな思考などなかった。あるいは、人格すら残っていなかったかもしれない。彼女の頭にあるのは、ただ「歩く」ことだけだった。目的も経緯もみな忘れ、「歩く」という手段だけが、彼女の最大の課題となっていた。それ以外のことは、すべて、失っていた。
 一歩。
 また、一歩。
 無尽と見える道を。悠久と思える時間を。
 前だけを見て――、一歩。
 彼女は歩いた。
 歩き続けた……。

 そして、歩みが止まった。

 風が、かすかに衣服をはためかせる。
 これまで感じることのなかった、わずかな潤いが、確かにそこには混じっていた。
 風に吹かれて、黄色い砂が舞い上がる。
 空の青と地の黄色だけに彩られてきた世界――不意に現われた緑は、壮絶な違和感を放っているように見えた。
 オアシス。
 澄んだ水を滾々(こんこん)とたたえた湖の周囲に、たくましい緑の雑草が繁茂し、木々の幹は力強くこげ茶色に輝いていた。
 彼女は、初め、それを認識できなかった。
 違和感のあまり、動かし続けてきた足を唐突に止めただけだった。
 しばらくの時間が過ぎてから――ようやく、彼女に魂が戻ってきた。
 オアシス。
 そして、遠目に見ゆるのは――数十軒の砂色の家屋と、外套をまとい行き交う人々の姿。
 理想郷。
 苦難の先に、あるという――。
 思わず彼女は駆け出した――まるで、火の粉の爆ぜるように。あまりにも久しぶりの行為なので、うっかり転びそうになりながら、湖に向かって全力で疾駆した。忘れたはずの、失ったはずの渇きを、今になって感じ始めていた――あふれ出んばかりの、喜びと共に。
 フードを弾き、顔を隠していた包帯をほどいて、彼女は湖を覗き込んだ。
 そこに、骸骨があった。
 比喩ではなく。皮を、血を、肉を、神経を、眼球を、脳を、舌を――すべてを失い、ただ骨だけになった人の顔が、湖に映りこんでいた。
 彼女は初め、それを認識できなかった。
 意味がわからず――わけもわからず、反射的に、両手で顔を覆おうとした。
 がちり、という硬い音がした。
 両手は肉を失っていた。嘗め尽くされたごとく、綺麗に――骨以外の部分を失っていた。
 茫然と――彼女は知った。
 飢えも渇きも疲れも無視して、歩き続けることのできた理由を。
 その代償を。
 彼女の肉は――血は――美貌は――苦難を乗り越え、歩き続けている間に、とうに失われてしまっていたのだということを。
 愕然とする彼女は、湖に、もうひとつの骸骨が映りこんでいることに気づいた。
 振り向けば、すぐ背後に骸骨が立っていた。
 背丈は成人男性ほど。派手な紫色の衣装に、ビロードの外套を羽織っている。手には、なにやら竪琴を携えていた。
「やあ」
 穏やかに風に乗る優しい響きは、彼が発したものらしかった。
「新しく誰かが来るのは、実に久しぶりだ」
 その言葉は、彼自身もまた、彼女と同じようにしてこの地に辿り着いたことを意味していた。ぼんやりと見上げていると、くい、と左手を引かれた。筋肉もないのに、彼女はいざなわれるまま、どうにか立ち上がることができた。
「誰もみな、最初は驚くものさ。案内するよ。街へ行こう」
 快活に笑い、彼が手を引っ張った。抵抗する気力もなく、彼女はそれに従った。
 オアシスは、少し小高い丘のようになっていた。そこを下れば、先ほど彼女が見つけた小さな集落が広がっている。長方形になるように家屋が並んだその街は、風情こそ、ありふれた砂漠近辺の街並みと酷似していたが、決定的に異なる部分があった。
 人がみな、骸骨なのだ。
 思い思いの衣服を着こなす骸骨たちが、街を闊歩していた。あるものは衣服を、あるものは本を売り、またあるものはそれらを見て財布の中身と相談していた。ごく日常的な光景が、実に異常なものたちによって、繰り広げられていた。
「彼らはみな、僕らと同じさ」
 街並みを歩きながら、男が、にこりと言った――表情筋はなくても、立ち居振る舞いや声の調子から、彼が微笑んでいるのだと知れた。
「理想郷を目指して、苦難の地を歩き続けた。血肉を失いながらも、決して諦めることなく、歩くことをやめなかった。ここは、そうした者たちが集まる、理想郷なんだ」
 彼女は首を傾げた。理想郷と呼ぶには、あまりに不自然な風景だった。そう告げると、男は微笑を苦笑に変えた。
「まあ、そうだね。
 でもここが、平等にして自由、優雅にして素朴であることは相違ない。裸一貫、骨だけになってしまった僕らには、地位も、容貌も、腕力も、関係なくなったのだからね」
 言われてみれば確かにそうだ――街行く人はみな穏やかで、どこか超然とした雰囲気を放っていた。それでいて気さくさに満ち、すれ違う都度、まったく自然な風情で挨拶を交わしていた。
「ここには誰かを差別する者なんていない。誰かをおとしめる者も、誰かをののしる者もいない。みんな知っているんだ――お互いに、どれほど辛い道のりを越えてきたのかを」
 連帯感――まばゆいほどの。人々は、あの「苦難の地」を越えてきた仲間同士、尊重し合い、労い合い、助け合っていた。
「そりゃ、性格とか、相性とかもあるし、まったく喧嘩がないとは言わないけどね。でも、本当に嫌い合うような相手は、ここにはいないよ。だってみんな、あの苦難を越えられるほどに、心が強い人ばかりなんだ。
 だから――僕らは君を歓迎するよ。新たなる仲間。新たなる友人。理想を目指し、苦難を乗り越えた――強い心を持つ君を」
 気がつけば、街中の人間が周囲に集まって来ていた。みな、満面の笑みで彼女を迎えていた。打算も恐怖もない、心からの喜びに裏打ちされた笑顔だった。
「ようこそ――僕らの理想郷へ」
 男が微笑み、竪琴をかき鳴らした。その音色が、あまりにも温かで――彼女は、思わず両手で顔を覆った。先ほどとは、違う理由で。
「私は」声がこぼれた。「もう――嬉しさに泣くことが、できないのですね」
 男は、一瞬、虚を突かれたような顔をして、思わず周囲の仲間を振り返った。にやにやする者、肩をすくめる者、親指を立てる者――役目を押しつけられたと悟って、若干の苦笑を浮かべながら、彼は彼女に向き直った。
「哭けばいい」
 緩やかに吐き出された言葉が、驚くほど心に沁みた。
「喜びも、悲しみも、怒りも、愉しさも。何もかもを詰め込んで――哭けばいい。大丈夫。ここに来た人は、みんな、そうするのだから」
 その言葉が、あまりにも優しくて――
 彼女は、哭いた。
 あまねく想いを詰め込んで。
 亡くした生命(いのち)を胸に刻んで。
 ただ――哭いた。
 人々は、笑いかけ、手を叩き、彼女の門出を祝福した。
 それが、何より嬉しかった。

 風が哭いた。
 夜が鳴いた。
 歓迎の宴で人々が上げた歓声を、まとめて運ぶ息吹の形で。
 泣けるくらいに、胸に響く色をして。

 苦難の先なる、理想の土地で。