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 優しくあれ――と、母は言った。
 人に優しく、己に厳しく。世のために働き、人のために動き、そしてそれを自らのための愉しみと思える人であれ、と。
 物心つく前からそう聞かされていたから、彼の心には、樹齢何百という大樹がたくましく根を張るがごとく、母の教えが染みついていた。
 あいにくと、彼には生まれつきの非常な頑健さを除けば、何の取り柄も才能も見当たらなかったから、その能力を以って人の役に立つことは難しかったが、そうしようと努力を怠らぬことはできた。
 やがて母が死に、天涯孤独となってからも、彼は笑顔を絶やすことなく、人のために身を粉にして働いた。お世辞にも、その能率は良いとはいえなかったけれど、彼の真面目さ、彼の素直さ、彼の優しさを知る人々は、決して彼を疎んじることはなかった。そのために、彼は、自らの凡庸さに苦悩することはあったけれど、おおむね幸せな日々を送っていた。
 国に、ある病が流行ったのは、そんな日々の最中であった。

 空気を伝って感染し、一度かかれば治る見込みはなく、そしてほとんどの患者が死に至る――恐るべき死病であった。
 それゆえ、事実が広まり、民が恐慌状態に陥る前に、政府は非情とも取れる政策を取った。病人を捕らえ、隔離し、そして即座に殺したのだ。その病は特殊であり、生者同士ではたやすく感染するが、病人の屍は無害となる。それを知っての処置であった。
 初めは、病人を木造の小屋に集めて、火をつけた。中からいかなる苦鳴や絶叫が響いて来ようとも、仕手たちは良心の呵責に耐え、ただひたすらに、彼らの冥福を祈った。犠牲を無駄にはしないと、堅く誓った。
 だが――、そこからが、地獄だった。
 燃え盛る小屋から人影が歩み寄ってくるのを、仕手たちは見た。皮膚はただれ、毛髪は焼け焦げ、衣服はいまだ燃え続けている――そんな人々が、信じがたい強靭さで迫り来るさまを、見た。その一件を以って、国は知ることとなる――この病に冒された者たちは、燃やされた程度では死にはしないことを。あるいは、病そのものが、自らを生存させるために、宿主に凄まじい頑健さを与えるのかもしれなかった。
 仕方がないので、続いて毒殺を試みた。再び病人を集め、致死性の毒を盛ったのだ。だが、それも通じなかった。常人が容易く死に至る量の猛毒をどれほど服用させしめようとも、病人たちを殺害することはできなかった。むしろ、彼らに無用な苦しみを与える結果でしかなかった。
 幾度かの試行を経て、国はようやく、病人が病によって死ぬ前に殺す方法を探し出した。
 それは、最も単純な術――斬首であった。
 頭と胴とを切り離すことが、恐らくは唯一、死病の蔓延を食い止める方法だったのだ。
 だが、その手段には相応の問題があった。斬首を行った仕手たちが、高い確率で死病に感染してしまうのだ。返り血を浴びたゆえか、同じ空気を近くで吸ったゆえか――全員が全員、感染するわけではなかったが、仕手たちは恐慌に駆られた。いくら国のためとはいえ、自らの生命を棄ててまで奉仕しようとは思わない者も多かったし、これではやがて、仕手の数が足りなくなって、対処しきれなくなってしまう。
 そこで国が目をつけたのが――彼だった。

 生来、あらゆる病にかかることもなく、負った怪我もすぐに治ってしまう、それ以外には何ら取り柄を持たない、優しい男。彼が雑用に雇われていた鍛冶屋で死病が流行ったことが、きっかけだった。親方から弟子まで、ほぼ全員が発病を確認された中で、彼だけが、まったく健康なままでいたのだ。
 親方一同を隔離するために現れた役人は驚き、彼の評判を聞いて、一縷の希望を見出した。彼の肉体は、この死病さえもを受け付けぬではなかろうか、と。
 死病の蔓延を阻止するために、病人の首を落とす役目を担ってはもらえないか――役人の依頼は、彼に凄まじい苦渋をもたらした。
 国のため、人のため、それが仕方のないことだとは、理解できる。だが、そのためには、無辜の人々をこの手で斬らねばならぬのだ。人を護るために人を斬るという、母の教えに矛盾する依頼であった。
 結局、彼はそれを請けた。まだ健康であった仕手から斬首の手順を習い、最初に、親方を斬った。頑丈なだけの彼を受け入れ、雇ってくれた生涯の恩人、その首を、泣きながら落としたのだった。
 自らの眼前で、滂沱と涙を流しつつ、重厚長大なる斬首刀を振り上げる彼の姿を見て、親方は苦笑を浮かべた。
 仕方ねえやな。やれや、坊ず――
 そこに至って、彼は拒んだ。全身を震わせ、そんなことはできないと、絶叫して刀を棄てた。じゃああああん、と、刃が床にぶつかって、悲痛なる悲鳴を上げた。
 ばかやろう――と、親方は怒鳴った。
 おめえがやらんかったら、誰がやるってんだ。おめえにしかできねえんだ――男なら、さっさとやりやがれ!
 一喝され、彼はわなないた。視線が流れ、床に落ちた刀に行き着いた。親方を見た。親方は、静謐な眼でこちらを見ていた。そこにたたえられた信頼を見て取って、彼は無意識に刀に手を伸ばした。つかんだ。握った。親方がつぶやいた――そうだ。それでいい。彼は立ち上がった。膝が笑い、親方も笑った。なにやってんだ。簡単なことじゃねえかよ。さあ、早く、やれ――。
 絶叫と共に、彼は刃を振るった。
 首は、あっけなく、斬れた。繋ぎ止めるものを失った頭部が寝台の上を転がって落下し、ごちん、という重い音を立てた。彼は、恐る恐る、親方の顔をのぞきこんだ――親方は、目を閉じて、そして、動かなくなっていた。あれほど活き活きとして、時に彼を叱り、時に彼を慰めてくれた親方が、たったあれだけで、もう、事切れていた。そのたやすさに、彼は戦慄し、恐怖し、号泣した。恩人を手にかける己の罪深さに慟哭し、絶望した。
 いっそ、これで病にかかってしまえば楽になれる――そう思ったほどだったが、彼の肉体は、彼の願いを裏切った。死病に感染する兆候は、まるで見られなかった。
 そこから、彼の、仕手としての仕事が始まった。

 次々と運ばれてくる病人を、迷う間もなく続けざまに斬った。どれほど嫌でも、彼以外に適任はなかった――だから、心を殺して、ただひたすらに、首を落とし続けた。
 余命幾ばくとない老人がいた。
 早く楽にしておくれ、と投げ遣りに言う老爺。いやだ、まだ死にたくない、孫の顔を見せてくれと、子どものように泣き喚く老婆。辛かろうになあ、と、彼の心を案じてくれる好々爺。さまざまな、老人がいた。
 生命を支える壮年がいた。
 オレが死んだら家族はどうしたらいいんだ、おまえがなんとかしてくれるのか、と責め立てる父親。お願いします、幼い娘がいるんです、どうかお願いします、と嘆願する母親。おまえに親はいないのか、おまえに子どもはいないのか、と情けを問う男。さまざまな、壮年がいた。
 未来ある若者がいた。
 てめえ、ブッ殺すぞ、とがむしゃらに暴れる青年。やめて、やめて、死ぬのは嫌、と号泣する女性。死の恐怖に恐れわななき、満足に言葉も発せない少年。やるなら早くしなさいよ、と、顔を背けてつぶやく少女。さまざまな、若者がいた。
 あどけない幼子がいた。
 恐怖に身を凍らせた童子がいた。何をされるのか、まだわかっていない童女がいた。思考すらおぼつかない、生まれて間もない赤子がいた。さまざまな、幼子がいた。
 すべて――斬った。
 泣きながら斬った。謝りながら、斬った。他の多くの人々のために諦めてくれと、祈りながら、斬った。そんなのは勝手な理屈に過ぎないと、自分の愚かさに絶望しながら、斬った。どうすればいいのかわからないまま、斬った。殺した人々の顔すべてが脳裏に刻まれていることに気付きながら、斬った。老若男女、さまざまな種別、さまざまな個性を持つ人がいることに改めて気付かされながら、斬った。そのどれもが、かけがえのない、たったひとつの生命であることを悟りながら、斬った。心が引き裂かれそうな想いで、斬った。もう辞めたいと、叫びながら、斬った。
 斬るごとに、殺す都度に、断ち切った生命の重みが、己の心に堆積していくような気がした。凝縮された恨みの念を感じた。どうして自分がこんなことをしなければならないのか、分からなくなっていた。痛かった。辛かった。苦しかった。穢れきった自分の手を見つめては、もはや母に顔向けできぬ身であることを悟って、その手で顔を覆った。それでも、辞めるわけにはいかなかった――仕手たりえるのは、彼しかいなかったから。それが、人のためになることだったから。
 仕事を終えて、かつては母とふたりで暮らしていたあばら家に戻ろうと街中を歩けば、怒りと蔑みと嘲りの視線を感じた。国中の人々は、政府の処置を「残酷にすぎる」「あまりにも非情」と弾劾していた。親しい人を、愛する人を、死病にかかったという理由それだけで斬首された人々の恨みは、国という概念存在そのものよりも、もっと分かりやすい実在の人物――すなわち、彼へと向けられた。
 世話になった鍛冶屋の親方やその弟子たちすらも手にかけた、恩を仇で返す非情の斬首人。その内心など、誰も知らなかった。彼も、知ってもらおうとは思わなかった――自分のしてきた所業は、どうあがいたって、言い訳のできないことだと思っていたから。人々が自分を恨むならそれも当然だと、自嘲のように、考えていたから。

 石畳の上を、薄汚れた靴で、彼は歩いた。通りを行く人々は、負の念に満ちた表情で彼を見やりながら、恐れるように道を開けた。そのことが、たまらなく哀しく、たまらなく辛かったが、文句を言えない立場であることは自覚していた。
 人を殺して得た金で、彼は食糧を買おうと肉屋に寄った。つい半年前まで、鍛冶屋の遣いで訪れる彼に親しい笑顔を向けてくれた親父は、そこにはいなかった。親父の目には、微塵の温かみもなかった。親父は言った。
 人殺しになど、肉は売れん。
 憎悪の塊のような一言に、彼は押し黙った。人殺し。何の変哲もない言葉のはずなのに、なぜか、ずぐり、と腹腔を抉られる心地がした。胸中が苦くて重い水で満たされて、熱いものがこみ上げてきた。
 叫びたかった。
 喚きたかった。
 望んで殺しているのではない、と。もう辞めてしまいたい、と。すまないと。ごめんなさいと。
 許してください、と。
 だが――言えなかった。言うわけには、いかなかった。自分が殺した人々の、そして、自分に身近な人を殺された人々の怒りは、恨みは、何よりも痛みは、自分の感じるそれよりも、重いのだろうから。
 母が死んだとき、彼は世界が色彩を失うような痛みを――虚無感を覚えた。「死んだ」だけで、これだ。「殺された」のなら、どうなってしまうのか、想像もつかなかった。
 そんな人々の前で、自分だって苦しいんだ、などと――どうして、言えよう。
 すいません。もごもごと、つぶやくようにそう言って、彼はうつむいたまま、肉屋を出た。顔を上げれば、身体中に突き刺さる視線の矢をまともに浴びてしまう気がした。
 だから彼は、背の低い少女の存在に、気づいた。
 通りの中央に、彼女は立っていた。まだ、物心ついたばかりくらいの歳。両手に、ぎゅっと、布製の人形を抱き締めていた。誰もが彼を避ける中、彼の進む道の先に、彼女は立っていた。
 戸惑う彼に、少女は訊いた。
 おじちゃんは――、ひとごろし、なの?
 その言葉の意味を、果たして把握しているのかどうか。純粋な興味から来る好奇心が、とろんとした両目にたたえられていた。彼は思い出した――同じような目をした少女を、つい先日、手にかけたことを。腕よりも細い首を斬ったことを。地面に頭の転がる音が、他の誰よりも、ずっと、ずっと、軽かったことを。
 ――ああ。彼は、答えた。
 両目から涙を流しつつ、昔は絶やすことのなかった、優しい微笑を口元に刻んで。
 そうだよ――、と。
 そして足早に彼女の脇を通り抜けた。今まで斬った人々の顔が、次々と脳裏を駆け巡り――感情を抑えきれなくなっていた。すべてをかなぐりすてて、ただひたすらに泣きたかった。心に溜め込んだものが重過ぎて、もう、どうしようもなくなっていた。
 できるだけ、人の少ない路地を選んだ。家に帰ったら、泣くつもりだった。そこでなら、誰にも迷惑をかけないから。
 子供の頃、よく遊んだ裏路地を通ろうとして、彼は立ち止まった。
 石塀に左右を塞がれた、細い路地――その奥に、女が独り、立っていた。
 塀の生み出す影に隠れて、その表情はよく見えなかったが、手の先で鋭く輝く刃だけは、哀しいくらい、よく見えた。
 喚きながら、女が突きかかってきた。
 よくも、とか、殺してやる、とか、返せ、とか。そんなことを言っていたようだった。一直線に来た。避けようと思えば避けられたけれど、彼の心に、そんな余裕はなかった――自分が殺した誰かの誰か。そう知った時点で、彼にとって、回避などという概念は思いつかない領域にあった。
 ずぐり――。
 「人殺し」と呼ばれた時に似た痛みが、腹部に走った。熱い。痛い。でも、こんなものは――目の前の彼女に比べれば。
 女は、鬼のような形相で刃をひねり、引き抜いた。しぶく返り血が、彼女の全身を染め上げた。憎悪にたぎる、大きく見開かれた目が、初めて彼の相貌を映した。
 女の目の中に、彼は、己が微笑みを見た。
 死なないんだ。
 雨粒のように、ぽつりと降り落ちた一言に、彼女は茫然とした。諭すように、自嘲するように、彼は言った。
 死なないんだ。それじゃ。その程度じゃ。
 同じような目には、何度も遭った。どんな想いも、すべて、その身体で受け止めてきた。自分が死ぬなら、自分を恨む誰かに殺されるのが適当だろうと、ずっと思っていたからだ。
 けれど、死ななかった――死ねなかった。彼の身体は、彼が考えていた以上に頑強だった。
 動かない女を押しやって、彼は歩き始めた。
 血は流れる。痛みはある。死なないだけで。
 それでも――すぐに、止まってしまう。消えてしまう。だから、せめて、それまでは、痛みを心に刻んでおきたかった。それを背負うことが、自分の業だと、そう思っていた。
 点々と血をこぼしながら、彼はようやく、貧民街の一画に辿り着いた。生まれてこのかた数十年、ずっと見てきた住み処の在り処。家は小さく、財は貧しかったけれど、母とふたりで穏やかに暮らしてゆける、それだけで、何よりも幸福だった時代を思い出し、彼は泣いた。泣きながら――
 絶句した。
 家がなかった。正確には、破壊されていた。無数の思い出が詰まった木造の家が、嵐に見舞われたかのように、ただの廃墟と化していた。そこを除けば、光景は、記憶にあるものとまったく違っていないのに。
 柱が折られ、踏み抜かれた屋根が内部を叩き潰していた。直す、という概念をあざ笑うような、徹底的な破壊の傷痕。彼がずっと大事にしてきた記憶の残り香は、外形ごと完膚なきまでに蹂躙され、叩き潰されていた。
 よろよろと、彼は我が家だったものに近づいた。
 はしごをかけなければ触ることもできなかった、板張りの屋根に、今はもう、しゃがまなければ触れることができなかった。
 力を失ったように、彼は、屋根の上に倒れた。ああ――自分は――こんなにも、恨まれているのか。そう思うだけで、熱いものが止まらなくなった――血は、もう、止まってしまったのに。その代わりとでも言うように、両の眼から、とめどなく涙があふれ出た。
 母さん。
 人を救って――人を助けて――人のために働いて――その「人」たちに恨まれて。
 俺は、どこへ行けばいいのでしょう。
 俺の居場所は、どこにあるのでしょう……
 母さん――
 俺は……、どうすればいいのでしょう。
 俺は……。
 吹き抜ける風。疼き出す傷。空いた腹。打ち抜かれた心。
 それでも死なない。それでも死ねない。――自分にさえも、許してもらえない。
 終わらない、苦しみに。
 俺は……。
 俺は……。

 悩めども、苦しめども、するべきことは変わらなかった。依然として死病は絶えることなく、毎日のように病人が運ばれてきた。刃を振るわぬ日は、一日たりともなかった。
 彼は耐えた。人を殺す苦痛に。殺される人の恨みに。誰かを殺された人の憎しみに。心は軋み、傷つき、痛んだけれど、彼は耐えて、人を殺し続けた。何をされても死なない頑健さだけが、彼の取り柄だ。その取り柄が人の役に立つのなら、どこまでも耐えてみせよう。痛みでは、人は死なないのだから。痛みに耐えることができさえすれば、いいのだから。
 どれほどの人を、斬っただろう。どれほどの日々を、過ごしただろう。時間の感覚などとうに麻痺していた。そんなものを気にする余裕はなかった。
 斬った。斬った。斬った。斬った。
 殺した。殺した。殺した。殺した。
 けれど、決して、忘れなかった。
 自分が何のために人を殺しているのかを。
 自分の行いがどれほどの苦しみを生んでいるのかを。
 彼は、決して、忘れなかった。……

 ある日、状況が一変した。
 ひとりの薬剤師が、長年国を苦しめてきた病に対抗しうる薬を作り出すことに成功したのだ。
 そのニュースは人々に希望と、そして怒りをもたらした。救えるはずの人々を、あっさりと殺してきた国に対する、壮絶な嚇怒だった。負なる念に衝き動かされた人々は、一致団結して叛乱を起こし、ついには政府を転覆させしめた。
 復讐の達成と勝利に酔う人々が、彼の存在を忘れているはずがなかった。  無慈悲にも、病人を大量に虐殺した男として、彼は反乱軍に住み処を囲まれた。彼の住み処はすでに貧民街ではなく、斬首場のすぐ近くの小屋であった。
 出て来い、人殺しめ! おまえを殺してやる! 我々の怒りを思い知れ! 鬼め! 悪魔め! さあ、今こそ断罪の時だ!
 激しい罵倒が、小屋を奮わせた。数百からなる人々の怒号、その結集だった。
 不意に、それが、止んだ。
 小屋を開け、彼が出てきたのだ。その手には、長く重たい一振りの刀があった。今まで、数多の人々の首を落としてきた一刀だった。無数の血を吸って、妖しく陽光を照り返す刃を目の当たりにした人々は、気圧され、言葉を失った。
 がらん、という音がした。彼が、力なく、その刀を棄てた音だった。それが、人々を我に返らせた。
 こ ろ せ!
 人々はすぐさま彼を捕らえ、全身を縛り上げて市街に連れ出した。意気揚々と行進する男たちに、町中の市民が声を送った。ころせ。積もりに積もった憎しみが、たったひとつの言葉に宿っていた。
 一行は中央広場に到着した。
 彼の身体はぞんざいに投げ捨てられ、そこから私刑が始まった。人々は、思い思いに彼を蹂躙した。頭から爪先まで、まんべんなく、凄まじい濃度の怒りを叩きつけた。彼は何も言わず、降り注ぐ苦痛の嵐を受け入れた。それが当然だと、彼は思っていた。
 ようやく、終わる。すべてが、終わる。その兆候を、彼は感じていた。長く、辛く、苦しかった日々が、自らの断罪という形で終わりを告げる。俺は、最後まで、人々の役に立てるのだ……
 ああ。
 なのになぜ、こうも哀しいのだろう。涙が出るのだろう。
 やるせない想いが、彼の胸中を満たしていた。この数十年、ずっと抱えてきた想いだった。
 自分のしてきたことは罪以外のなんでもない。報いを受けるのは当然のことだ。そのことは分かっている。理解している。諦めている。受け容れている。
 でも。
 それでも。
 せめて、誰かに、自分の気持ちを識っていて欲しいと――そう思うことは、贅沢なのだろうか……?
 朦朧とする頭に、立ち上がらせろ、という声が、がんがんと反響した。同時に、苦痛まみれの身体が乱暴に抱き起こされ、左右から強靭な男たちに抱えられた。
 潰れた眼を無理やり開けて、彼は目の前の風景を確認した。自分を取り囲む数百の人々、そこから一人の男が歩み出てくるところだった。その横には、中年の女が寄り添っており、彼が振るっていた斬首刀を男に渡していた。その姿には、見覚えがあった――かつて、裏路地で、彼を刺した女性だった。
 業――であった。
 彼は、自然と首を垂れた。もはや、自分の運命は覆らない。あるがままに、すべてを受け容れるしかないのだ。それが、自分に出来る、唯一の償いなのだろう。
 近くで、ぶんと刃を振り上げる気配がした。耳慣れた音。目を閉じて、それを待つ心境というのは、こうも切ないものだったのか――それを思うと、改めて、いままで殺してきた人々への申し訳なさが湧き上がってきた。
 もうすぐ、終わる。
 きっと、あの世でも、自分は永遠の苦しみを受けるだろう。だが、それも仕方ない。それだけのことを、してきたのだから。
 だから――せめて、それまでは。
 現世の苦しみから断たれて、束の間の安堵を噛み締めたい……。

「ころせ!」
 市民たちが、拳を挙げて声高に叫んだ。
「ころせ!」
 彼を支える男たちが、威勢よく叫んだ。
「ころせ!」
 彼もまた、腹腔に力をこめて、叫んだ。
 転瞬、刃が振り下ろされた。

 ワァァァァ――――という大歓声。長年の悲願が成就されたことに対する、歓びの雄叫びが広場を満たしていた。憎き仇の首を落とした男は、手にした斬首刀を掲げて、誇らしげにその声に応えた。
 さあ、次は、憎むべき政府の高官たちだ!
 男の号令に、市民は調和した。まだ、復讐と勝利は終わりきってはいない。あらゆる罪人を断罪して、初めて彼らは心安らかな日々を手に入れられるのだから。
 遠ざかる人々の、大地を揺るがすような足音を、彼は聞いていた。
 落とされた首は、石畳の上を転々と転がって、さらに誰かに蹴り飛ばされ、何かの翳りに入ってしまった。柱か何かに後頭部がぶつかり、鈍い痛みが走った。もちろん、切断された首元からも、断続的に、鋭い痛みが発生していた。
 彼は苦笑した。これでも、まだ死ねない自分の身体、その呪わしさに。運命は、ふさわしい終わり方をもたらすものらしい。首を落とされるより、野犬かカラスについばまれ、苦痛の果てに死んでゆけと――そう言われているようだった。
 ふと。
 近づく気配が、ひとつ、あった。
 柔らかな手が、傷口に触れまいとする慎重さで、彼を抱え上げた。状況の不可解さに驚き、ハッとした彼は、重い瞼をどうにか開けて、何が起こっているのかを知ろうとした。
 視界に映ったものは、空を背景にしゃがみこんだ、ひとりの女性だった。
 もう、子どもがいてもおかしくないくらいの年齢。やや下がり気味の目尻。優しげな風貌。穏やかな瞳。そこに漂うのは、憐れみと――興味?
 あ、と、彼は声を上げた。彼女が誰なのか、思い出したからだった。
 女性は――人形を抱え、通りに立っていた、あのときの面影を残したままの彼女は、不思議な眼で彼の瞳を覗き込んでいた。
 やがて、そこに、何かが生まれた。
 理解と――納得。
 それを悟り、彼は震えた。誰かに知って欲しくてたまらなかった、己が内心を――彼女は見抜いた。見抜いてくれた。ほんのわずかな邂逅だけで、彼女は――
 微笑んで――
「ありがとう……」
 ああ――
 止まらない。止める必要も、もはやない。ほとばしる想いを、内に留めて抱え込む理由など、何もない。
 俺は――自由だ――
 泣きじゃくる生首を、女は、そっと抱えた。着衣が血に染まることを厭いもしなかった。
 やがて彼女は、首もとのスカーフを解くと、それで彼を包みこみ、立ち上がって――
 その場を、去った。

 消えた生首の行方を、今は、誰も知らない。
 逆恨みのために化け物となりて、夜の街を闊歩しているとか、とっくに馬車にでも踏まれてしまったとか、しばらくは勝手な志摩憶測が流れたが――急激なる国の変化に付き合う間に、人々は、やがて、そんなことなど忘れてしまった。
 だが。
 その国のどこかで、今も、彼は生きている。
 穏やかな心地で、優しくあれと、幼子たちに説きながら――ひっそりと。
 彼は――生きている。