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地獄蝶々



CHAPTER.01

『不死ナル姫』







 カイは、静かに息をひそめていた。
 深い緑の生い茂る、穏やかな静けさに満ちた森林のなか――湿った大地に身を伏せて、鳶色の目をはるか彼方に向けていた。手には、すでに太矢のつがえられたいしゆみを携えている。
(落ち着け……)
 心のなかで、自分に言い聞かせる。
 森の気配と同一化を図るには、まず自分自身を騙さなければならない。己が身は、この森の一部であり、そよぎゆく風に惑う、ひとひらの落ち葉よりもなお、静穏なる存在であるのだと。そして、それでいながら、来たるべき一瞬に備えて、意識を研ぎ澄ませていなければならない。狩人であるカイにとっては慣れた行為であったが、だからと言って気を抜けるものではなかった。
 ことに今は、狙っている獲物に思いを馳せるたび、自然と心臓が高鳴り、背筋を冷気が駆け上る。いつも以上に、精神を平静かつ鋭利に保たねばならなかった。
 若い血は、ともすれば熱く燃え盛り、身体の主を急き立てんとする。それを抑え込むのは、胸に秘められた強固な使命感だった――少年はそう信じていたかったが、実際には、かすかな不安と確かな恐怖こそが、その役目を担っていたのかもしれない。
(落ち着け……落ち着くんだ……)
 ごくり、唾を呑み込んだ。落ち着け。焦るな。一撃で仕留めるんだ――気づかれる前に射止めるんだ。そうしなければ――それができなければ――自分はおそらく、殺される。
 弩の引き金にかけられた指先が、じっとりと湿るのを感じていた。ひりつくような恐怖が先走らないよう、必死で精神を制御する。弩は、再装填に恐ろしいほど時間がかかる。無駄撃ちは、この場合、死につながるのだ。
(落ち着け……落ち着け……落ち……)
 瞬間。
 視線の先に、影が揺らめいた。
 黒く、細長い――人影が。
 そう認識したと自覚するより早く、カイの目はカッと見開かれていた。指先が引き金を滑り、確かな強さで絞り抜く。板金鎧すら貫く太矢が、びょうと風を貫く速度で飛び出したかと思うと、はるか先方の影に突き刺さり――吹っ飛ばすような勢いで、撃ち倒した。
(仕留めた!)
 うまくいった、という快哉――本当にそうだろうか、という不安。ふたつが胸中でないまぜになり、どう感じていいのかわからなくなった心臓が、ばくばくとさらなる脈動を放った。
 矢筒から太矢を取り出し、急いで弩に装填する。弩は、通常の弓とは異なり、引いた弦をフックに引っかけて、固定しておくことができる。そして、引き金を絞ることで、針金が連動し、弦から矢が解き放たれるという仕組みだ。使い手の筋力に関わらず高い威力を誇り、矢を引き絞り続ける必要がないため、待ち伏せや狙撃に向いているのだが、再装填にかかる手間が、最大のネックだった。長弓の扱いに特化した射手なら、弩一射の間に、六射を放ってくるという。
 カイの持っている弩は先端に輪がついており、そこに足先を入れ、弩を縦にした状態で、弦を思いっきり上に引っ張る必要がある。興奮に震える手元で、なんとか太矢を再装填した少年は、なるべく音を立てぬよう、ゆっくりと人影の倒れた方へと近づいていった。相手が不審な挙動を見せようものなら、即座に第二射を射かける心算だった。
 歩み寄るほどに緊張が高まり、鼓動を速めていく。意識して、カイはごくりと唾を呑み込んだ。そうする余裕があることを、自分自身に知らしめるためだった。相手の攻撃射程はまるでわからない――いつでも、どんな方向へでも飛び退くことができるよう、周囲の地形に気を配りながら、足を進める。
 そして、やがて、目指すべき地点へと辿り着いた。
 だがそこに、彼の想像していたものは――胸に矢を受けて死した怪物の姿は――なかった。
 代わりに、十代中頃の、ほっそりとした少女が立っていた。
 精緻な刺繍や優雅な曲線を施された、艶のある漆黒のドレスを身にまとった少女だ。長く伸ばされた金髪が、樹冠から注ぐ陽光をきらきらと美しく照り返している。繊細に整った容貌をしているが、腰には、それとは不釣り合いな、なんというか、全体のねじくれた焦げ茶色の長刀を佩いている。
 カイは、唖然となった。
(……意味がわからない)
 というのが、正直な第一印象だった。
 この辺りは、カイの縄張りだ。ほかの村人が入ってくることはないし、街道から外れているため、旅人が迷い込むような場所でもない。目の前の少女が存在する理屈は、彼の知る限り、どこにもないのだ。
 そして――何よりも奇異なのは、倒した獲物の姿がなく、その場所に彼女が立っていることだ。
 最初は、あわや彼女を撃ってしまったのかと思ったが、すぐに、そうではないと気がついた。少女の衣服にも、肢体にも、太矢を受けたような跡はまったく見られなかったからだ。
 では、獲物はどこに消えてしまったのか――。
 少女の足元を見ると、むき出しの地面に、大量の血液が付着していた。まだ凝固していない。確かに何かを貫いたはずなのだ――しかし、凶器である太矢は、どこにも見つからなかった。
 困惑は激しかったが、目の前に獲物がおらず、少女がいるという現実に変わりはない。
 構えていた弩を下げながら、少年は、少女に声をかけた。
「怪物がいたはずなんだ」
 告げてから、自分でも、その第一声はどうなのかと思ったが、少女は顔色を変えなかった。真摯な眼差しで、じ、とこちらを見つめてきている。どんな荒唐無稽な話でも、すべてしっかり受け止めます、と言わんばかりのまじめさに、少年は正直、面食らった。
「ここは危ない。村に行った方がいい」
「私は」
 少女の唇が淡く開かれ、消え入りそうな声が流れた。鈴の音かと思うような、玲瓏たる美声だった。それでいて、頑とした強さが、確かに備わっていた。
「その怪物を探して、ここまで来たんです」
 カイは、眉をひそめた。
 森に怪物が出たことは、当然、他の村人たちにも話している。
 彼らの協力を得て、怪物を狩り出すことができれば――そう思ったのだが、村の誰ひとりとして、彼が語る怪物の脅威を信じてはくれなかった。そのため、カイは憤慨し、自分ひとりで怪物を倒すことにしたのだ。村の平和を守るとともに、自分の正しさを、わからず屋どもに証明してみせるために。
 そんな、カイ以外誰も信じていない怪物の存在を、この見知らぬ少女が探しているという――まったくもって、わけがわからない。
 少年が戸惑っていると、少女は根気強く言葉を続けた。
「私なら、その怪物を――」
 だが、その言葉は途中で消えた。
 横薙ぎにしなった長大な鞭が、少女の側頭部を直撃し、細い首をありえざる方向に曲げ折りながら、強烈に吹き飛ばしたのだ。
「なっ……!」
 カイは絶句した。
 目の前で、少女が惨殺されたことに。
 そして――彼が追っていた怪物≠ェ、のそりと姿を現したことに。
 それは、人間の数倍の大きさの顔から、おそろしく太い四肢を生やした怪物だった。
 全長は、成人男性の二倍はあるだろうか。ぎょろりと剥かれたまぶたのない瞳が、カイの全身を映している。髪はざんばらで、縮れねじくれ、凄まじい悪臭を放っていた。
 そいつは、ゆっくりと歩を進めてきた。どろどろと、足跡を焦がしながら。
 焼けつくような匂いが広がる――何かの焦げる匂いだ。まるで、目の前の怪物が、内側から焦がされているような――あるいは、内側から燻製にされているような、そんなイメージを少年は抱いた。余裕があるからではなかった。悪夢的な不気味さを放つ存在の姿に圧倒されて、動くことも忘れ、ぼうっとそんなことを考えてしまったのだった。
 かはぁああああ……、と、怪物が息を吐く。熱い。数歩分、離れた距離にいてさえ、熱風にあてられたようだ。ひどい匂いもする。吸い込めば、身体の内側から焼け爛れてしまいそうだ。
 あんぐりと、怪物が口を開く。
 冗談のように大きく裂けた口のなかには、太くいびつな乱杭歯が、ずらりと並んでいた。噛みつかれれば、鎧を着ていてさえ、耐えられないだろう。
(なんだ……これ)
 現実感のない現象に、全身が微細に震える。
(ちょっと待てよ……近づいてくるじゃないか……)
 徐々に、心が麻痺から目覚めつつある。だが、身体は動かない。精神と肉体が切り離されたかのように。
(やばい……やばい、やばい、やばい! 喰われる! 殺される! このままじゃ――)
 迫り来る脅威に、少年はなすすべもなく、凝然とすることを強いられ――
「……うぉああああああああぁああッ!」
 腹の底から、声を上げた。
 そうすることで、呪縛から解き放たれたように、身体が動いた。身を退きながら、弩を前に向ける。狙いを定めるまでもない――大きすぎる口へと、引き金を絞る。風を切り、矢が放たれる――突き刺さる。深く。強く。
「ごぅおおおおおあああああああああ!」
 怪物が、咆哮した。思わず足がすくんで、カイは尻餅をついた。「ぁ、ひぃっ……!」弩を捨て、爪先で地面を蹴るようにして、どうにか後ずさる。だが、そんな挙動では、微々たる距離しか稼げなかった。怪物は、なおもおぞましい咆哮を上げ、確かな殺意を両の眼にぎらつかせた。
(死なないのかよ……あれで!)
 恐怖と絶望に、少年が顔をひきつらせた時、
 疾風が、参じた。
 吹き抜けたのは、軽やかな爽風だった。怪物が放つ悪臭をものともせず、逆に吹き飛ばしてしまうような、力強さと大胆さに満ちた風だ。
 それは、鋼の形をしていた。
 一閃。
 舞い踊るようにして現れた少女の振るう、幅広の両手刀・・・・・・が、異形の右腕を切り落としていた。
 カイは茫然として、その姿を見つめた。
 闇に染まったような漆黒のドレス。冷たくきらめく金色の髪。憂いを宿した、切なげな美貌――哀しみが、そのまま刃となったような。
 彼女だ。
 首をへし折られ、細い体躯を吹き飛ばされて、確かに絶命したはずの彼女が、そこにいた。なぜか、先程佩いていたのとは別の剣を携えて。
「下がってください」
 はっとするほど澄んだ声音に、少年が思わず従うと、
 少女は、異形に烈駆をかけた。

 咆哮とともに、怪物は残された左の剛腕を向かい来る少女へと振り下ろした。
 少女は、旋回しつつ跳躍して、かいくぐるように一撃をかわす。ざざざざざッ、と吹き上げられた木の葉にまぎれるような動きだった。
 そのまま、後ろを取る――異形が少女を見失う。
 すると、少女の手にする大刀が、『ばきんッ!』と音を立てて、でたらめに変形した。
 太く長かった刀身が、一瞬にして、針のように細く鋭い形状と化す。
 突き穿つ一閃が、怪物の左膝を裏側から貫く。
 バランスを崩し、怪物が前のめりに倒れる。少女が剣を引き抜くと、おびただしい量の血飛沫がほとばしり、宙を濡らした。振り向きざまに、怪物が腕を振るう――切り落とされたはずの、右の腕を。
(馬鹿な!)
 カイは、心のなかで悲鳴を上げた。
 その腕は、確かに失われたはずだった。実際、おぞましいほど太い腕が、今も大地に転がっている。だが、怪物の右腕が存在していることもまた、事実だった。目を離した隙に新しく生えてきたとしか考えられない。ありえないが――でも、そうとしか。
 反撃の腕をかわし、またも少女が、武器を組み替える。『ばきんッ!』変形した剣が、二刀に別れて、少女の両の細腕に宿った。
 次々と繰り出される高速の剣撃が、異形の全身を刻み抜く。
 まさしく猛攻――怪物の周囲をくるくると舞い踊りながら、少女の刃が閃き渡る。怪物の全身に細かな傷が刻まれていき、霧雨のように血霧が噴いた。
 そして、今度こそ少年は見た。
 じゅうう、と、焼きごてを当てられたような音がしたかと思うと、怪物の傷から煙が噴き上がり、塞がっていったのだ。再生している――あろうことか、とんでもない速度で。貫かれた左の膝裏も、すでに何の無理もなく、巨大な顔の重量を支えている。
 斬っても刺しても死なない肉体――ただでさえ悪夢めいていた怪物は、少年が思っていた以上に理不尽な特性を持っていたのだ。太矢で致命傷を与えられなかったこともうなずける。
(でも……、だったら、勝てっこないじゃないか!)
 戦慄が駆け抜ける。高速で傷が癒える怪物を相手に、どう立ち回ればいいというのか。少女は小刻みに斬りつけているが、傷が小さい分、再生も早いようだ。そして怪物は、特に体力を消耗した様子もなく、でたらめに両腕を振るっている。少女はうまく避けているが、当たってしまえば一撃だ。分の悪すぎる勝負――というより、勝ち目がいっさい見つからない戦いだった。
 いや。
 狩人の観察眼が、違和感を捉えた。背面――後頭部と言うべきか。そこに刻まれた傷跡がいくつか、癒えることなく残っている。
 あ、と思う間もなく、少女が高々と跳躍した。
 スカートを翻し、ひらり軽々と怪物の頭上を飛び越えながら、『ばきんッ!』二刀を合体、変形、拡大させ、巨大な斧と化さしめる。
 少女が、怪物と背中合わせに着地する。
 直後、彼女は振り向きざま、怪物の後頭部に、手にした戦斧を叩きつけた。
 存分なまでに、遠心力を味方につけた一撃――それは、異形の背部をたやすく断ち割るに足るものだった。
 噴き上がる絶叫――濁音の濁流。ほとばしる血飛沫を、そのまま言葉にしたような。
 それは、これまで怪物が上げたどんな叫びとも違っていた。生命の喪失を如実に感じ取り、耐えがたい恐怖と絶望のために上げた叫びであった。
 すなわち――断末魔の絶叫だ。
 やがて、叫びが小さくしぼんでいって――
 異形が、どう、と前のめりに倒れた。
 そのまましばらく、びくびくと痙攣していたが――やがて、数呼吸も経たないうちに、動かなくなる。
 少女が勝利したのだと、遅まきながら少年は気づいた。
(傷が癒えなかった場所……、もしかして、あそこが弱点だったのか?)
 だとしたら、その弱点を見つけるために、彼女は、あらゆる攻撃をかわしながら、執拗なまでに全身を切り刻んでいたのだろうか。
(なんて子だ……)
 瞠目しながら、少女に視線をやった少年は、
 ハッと、思わず息を呑みこんだ。
 彼女は、勝利に浮かれていなかった。
 それどころか、さらなる憂いを眼に宿していた。哀しみに沈む相貌に、暗く切ない陰影が刻まれていた。その憂いは、その翳は、煮えたぎるほど熱く燃え盛って、少女の内側から滲み出ていた。
 そう。
 不死なる異形を確殺した少女の双頬は、しとどと涙に濡れていた――。


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