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≪リァノゥン・シー≫




 篠突く雨に打ち据えられるガラス窓――その向こうに広がる夜の闇を、彼は、窓のすぐそばでじっと眺めていた。
 テーブルに置かれた燭台の上で、静かに命を削り続けるロウソクの灯りが、頼りなげに揺らめいている。照らし出される狭い屋内には、足の踏み場もないほど、様々な画材が散乱していた。家主たる彼もまた、だらしなくよれたシャツを着続け、髪も髭も伸び放題というありさまで、およそ人間らしい暮らしに注意を払っている様子はない。
 窓の向こうには路地が広がっており、曇りがかった月明かりが、雨に濡れた石畳に複雑な陰影を刻んでいた。別に、この雨の中、そこを通る人間の急ぎように興味があるわけではない――ただ、次の作品をどうしようかという悩みを解消できずに、雨の激しさを意味もなく見続けているにすぎなかった。
 新たなる着想――大いなる閃き。それほど大したものがほしいわけではないが、自らのモチベーションを高める意味でも、これは、という題材を欲していた。持てる技術を結集し、打ち込んで作品を完成させたいが、何を作るべきかというイメージがないままでは、創作意欲がくすぶり、無為に胸を焦がすのみでしかない。自分が内側からゆっくりと燻製にされるような、もどかしい痒みがあった。
 そうしていると、脳裏に、もう何度再生したかわからない友人の言葉がよみがえってくる。
『最近、素晴らしい女性と出会ったんだ』
 自分と同年代であり、同じように画家として地道な活動を続けていた彼は、場末の酒場の片隅で、安いワインの注がれた木杯を片手に、揚々と語ったものだった。
『彼女を見ているだけで、心を熱が満たしていく。意欲が湧くんだ。それだけじゃない、描いても描いても足りない程に、新しいイメージが現れる――まるで、着想の海に飛び込んだみたいに』
 もともと、ひょろりとした痩身の男だったが、最近はとくにひどかった。頬は抉られたようにこけ、目の下にはくっきりと隈が浮かんでいた。それでいて、熱弁をふるう彼の瞳はぎらぎらと燃え盛るようで、どこか狂気じみた恐ろしささえ漂わせていた。
 その雰囲気に気圧されながら、同席していた、彫刻を得手とするもうひとりの芸術仲間の男が、からかうように言った。
『気をつけた方がいいんじゃないか。その女、リァノゥン・シーかもしれんぜ』
『リァノゥン……シー? 不思議な言葉だ。フランス語じゃないな』
『ゲール語といったかな。英国の北の方の言葉だ。悩める芸術家の元に現れ、たちまち魅了しちまう女の妖精でな。そいつに出会うと素晴らしい閃きを得られるんで、どんどん作品を生み出すんだが、代わりに命を削られるらしい。そうして、芸術家をひとり殺した妖精は、また別の男を捜すってわけさ』
『それはいい。今度、テーマに使わせてもらおう。――それとも、君が描いてみるかい?』
 友人は笑いながら、自分に語りかけてきた。『あ、いや……』話を振られるとは思わず、思わず口ごもる自分に、友人は、気さくな微笑みを浮かべて見せた。
『君の絵には、僕にはない角度がある。ちょうど、君の新作が見たいと思っていたところだ』
 その言葉には、縮こまりながら感激するしかなかった。漠然と芸術の道を志し、依然認められもせず赤貧暮らしを続ける自分にとって、きらめくような熱意でもってぐんぐんと評価を高めつつある彼は、大いなる目標であり、憧れであった。その上、偶然知り合った自分のようなものを気にかけ、事あるごとに励ましてくれる。彼がいなければ、孤独の中で悩みに溺れ、首を吊って死んでいたかもしれない。言わば、彼は自分にとっての英雄であり、導師でもあった。
 ――彼が衰弱死したことを知ったのは、その数日後だった。

 友人の死は、男にとっての絶望だった。涙で頬を濡らし、天を呪ってなお、胸は晴れなかった。
 めきめきと実力を伸ばしてきていた若き芸術家の死――そのニュースには、いつしか、こんな噂がついて回ることになった。
『彼は、妖精に魅入られて死んだのだ』、と。
 窓の外の雨を眺めながら、男は友人の死後、この一年を振り返る。
 臆病で弱気で内気な自分を奮い立たせ、ここまで導いてくれた友人に報いるため、何ができるだろうかと、彼は考えた――しかし、友のために自分がしてやれることなど、ほとんどあるわけもなく、そもそも、自分にできることは、たったひとつしかなかった。
 そう自覚して以来、彼は、作品を築き上げることに没頭した。ただがむしゃらに、内なる想いを叩きつけるようにして、作品を生み出し続けたのだ。そして、それは、今もまだ続いている――
 不意に、ロウソクが強く揺らめき、虚しげに火を消した。まるで、突然の何かに抗おうとして果たせず、無念そうに敗れ去っていったかのようだった。
 同時に、窓とは反対側の壁にあるおんぼろの扉の、軋みながら開く音が、ギィ、と響き渡った。
 背後から、風が吹きつける――ざぁざぁとやかましい雨の声がいや増す。ぺたり、という音は、裸足が木の床を踏みしめた響きか。続いて、かさりという衣擦れが、新たな足音と連動して、耳に届いた。風を受けた扉が、ばん、と激しく閉じられ、軋む家屋を震わせる。
 突然の出来事に、おののきながら振り向くと、入り口に立つ、白すぎる女の姿が見えた。
 窓から差し込む月光だけが、彼女を淡く照らしている。白磁もかくやと輝く、ほっそりとした肢体に、薄手の白いワンピースをまとっていた。カラスの濡れ羽色をした黒髪が、さらりと背中に流れるが、雨粒のひとつも落ちはしない。暗闇の中に、ぽつりと穿たれた、白い人影――およそ現実感というものを感じられない。幻想を、そのまま形にしたような女だった。
 ぺたり――近づいてくる。ゆっくりと。数歩進んだところで、伏せがちだった瞳が持ち上げられ、緩やかに、男を見た。ルビーを溶かし込んだような真紅の瞳が、立ちすくむ彼の姿を、映し出していた。
《あなたの内に眠る熱を――見せて》
 ぞっとするほど甘いささやきが、うっすらと開いた唇からこぼれた。わずかに小首をかしげると、長い黒髪が、葉擦れに似た音を立てて、さらさらと揺れる。合わせて、果実を煮立てたような濃密な芳香が部屋を満たし、男の脳内に染み込んでいった。彼女のわずかな挙動を目の当たりにするだけで、頭がぐらぐらと揺れ、熱い痺れが胸を焦がしていくのを自覚する。男は、壁を背にへたり込みながら、かすれた声を立てた。
「リァ……ノゥン……」
《見せて……》
 いつしか、女はすぐ目の前にいた――しなやかな挙動で、ゆっくりとかがみこみ、目と目を合わせてきた。顔の左右から、瀑布のごとく黒髪が滑り落ち、男の顔の両脇に垂れ下がって、耳をくすぐる。もう、ほとんど女の顔しか見えない――黒髪が檻となって、ふたりを閉じ込めていた。至近距離。ひどく狭く閉ざされた、ひどく幻想的な箱庭が、ふたりの間に息づいていた。
 床に膝を突いた女の衣服が、やわらかく、その下の男の腹にこすれる。
 まだ、身体のどこも触れあってはいない。触れば、そこから溶けてしまいそうなほど、女の気配は甘く、儚げだった。夢の中にいるような浮遊感が、男の全身を包み、陶然とさせる。同時に、今まで思いつきもしなかった、あるいは、手が届きそうで一歩至り得なかった様々なイメージが、濁流のごとく押し寄せてきた。燃え上がるような熱が、男のすべてを焦がしていた。ぐつぐつと煮立つ、着想の鍋の中に放り込まれたようだった。
《見せて……》
 女がささやく。身を沈める。しなだれるように押し寄せてくる。男が震える――女が微笑む。
 恐ろしいほどの幸福感に包まれながら、男は、「ああ……」とうなずいた。
 そして、
 手にしたナイフを、女の左耳の奥深くへと、ためらいもなく突き刺した。

《ァァアァアアァアアァァアァアァアアアァアアアアアア――……!》
 断末魔の悲鳴さえ、女は美しかった。
 そのことに満足しながら、男は彼女をそっと床に横たえると、さらにもう1本のナイフを、反対側の耳に突き刺した。ざくりという感触の後に、女が強く痙攣し、またひとつ、長く尾を引く悲愴の歌声を響かせる。
 これだ、という確信めいた熱火が、彼の脳を震わせる。閃いたイメージ――得られたる着想のままに、新たなナイフを抜き放ち、刺す。そのたびに女の身体は痙攣し、止まない悲鳴を打ち上げる。大いなる芸術の実現に、男はいつしか笑っていた。凄まじい微笑みを顔面にたたえ、こらえきれない愉悦法悦を吐き出すように、音程の不確かに揺れる不気味な笑い声を上げていた。
「はハははハハはははハハ――」手慣れた動作でナイフを構え、「はハ――」急所を狙い澄まして、「ははっ――ハははは――」果てのない充足に打ち震えながら、「はハははハはははハ――!」刺す。
 友人の死を知った彼が、友人にためにしてやれること――それは、妖精への復讐に他ならなかった。
 だが、リァノゥン・シーに出会えたとしても、たちまち彼女に魅了され、その体力の尽きるまで作品を生み出し続けることになる。それでは――魅了されてしまった状態では、彼女を殺すことはできない。
 だから、彼は、自らが志向する芸術そのものを変えた。
 美しい女性の身体を、美しく切り刻み、美しく解体し、美しくつなぎ合わせ、美しく飾りつけ、美しく保存することこそを、自分が目指す本気の芸術に、塗り替えたのだ。
 リァノゥン・シーに出会い、得られた着想のすべては、彼の新たな『芸術』を実現するためのものであり――それゆえ、美しきリァノゥン・シー自身が、彼にとって恰好の創作材料となった。
 彼は、魅了されたがゆえにこそ、彼女にナイフを突き立てることができたのだ。
 そうするためには、彼自身が、本気でその『芸術』に打ち込まなければならなかった。もちろん、彼はそうした――幾人もの女性を『材料』として、たぎる芸術性をぶつけ、本気で『作品』を生み出し続けた。リァノゥン・シーを呼び寄せるに至るほど――内なる着想が尽きるまで。そして彼女は、その罠にかかったのだ。
 無数のナイフに貫かれていながら、女は痙攣し続け、悲鳴を上げ続けた。普通の人間なら、とっくにショック死しているはずの激痛と出血を与えているのに、まだ、拒絶の叫びを上げ続けてくれていた。素晴らしい。なんという逸材だ。彼は悦びに打ち震え、感謝の証に、さらなるナイフをもたらした。
 感謝――そう。今や彼は、女に感謝すらしていた――友人を殺してくれてありがとう、と。彼女が友人を殺していなければ、自分は復讐のために芸術を変えることもなく、これほどの充足を得られぬまま、無為に生を過ごすことになっていただろう。この法悦――この満足感――まったくもって最高だ。よくぞ友を殺してくれた。この火この熱この猛り、これぞまさしく芸術であり情熱であり魂であり極限であり――「――――ィィィィィィィィヤッハァ――――ッ!!」
 笑いすぎて、もはや呼吸すら覚束なかった。意識は朦朧となり、手は勝手に解体作業に入っている。そこに自らの意思は介在しない。芸術そのものが自分を動かしているのだと、彼は陶酔した。
 絶叫とともに跳ね上がる血飛沫が彼の全身を染め上げ、大いなる熱で満たす。絶え間なく噴出し続ける血潮は、やがて雨のように二人を濡らした。ならばこの絶叫こそ、さしずめ間断なき雨垂れの響きか――美しい!
 さらなる着想に震える手つきで、彼は、内なる熱の尽きるまで、縦横無尽に刃を振るい抜いた――

 ――数日後、異臭を放つ家屋から、満面の笑顔で衰弱死した芸術家の屍が発見された。地下には、彼が製作したと思われる『オブジェ』が多数設置されており、連続婦女誘拐事件の真相を、その全身で主張していた。
 なお、押収されたオブジェの中には、この世ならぬ圧倒的なおぞましさを放つ、一目見れば目を離せなくなる恐るべき品があり、闇のルートで好事家の手に渡ったと言われている――