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 永遠を望んだ少女がいた。
 久遠を求めた少年がいた。
 偶然に出会って、恋し合い、愛し合ったふたり。彼女らにとって、お互いの存在は、まるで愛し合うことが定められた運命であったかのように、すべてが愛おしかった。これ以上の相手など望むべくもなく、いま以上の幸福などあるはずもなく、ふたりはただ、その愛の永遠なることを願ってやまなかった。
 けれども、世界は非情であった。
 時代は戦乱の最中であり、ある程度以上の地位を持つ者のもとに生まれた子らは、その伴侶さえ、親の策謀の範疇であるのが普通だった。吹き荒れる金と権力の暴虐の前に、狂おしい熱情以外の力を持たぬ若者たちは、自由なる恋愛など望むべくもなく――まさにそのとき、ふたりを引き裂く残虐な謀略の流れが去来しようとしていた。
 だから――ふたりは、逃げ出した。

 親に逆らい、時代に抗い、どこまでも逃げた。今の逡巡も後の後悔も棄てて、ただ情熱の命じるままに逃亡した。自分たちの走り抜けて行く先に、たとえどれほどの艱難辛苦があろうとも、ただ隣にいるだけで至上の幸福をもたらしてくれる愛しい恋人がいれば、他には何もいらなかった。だからふたりは、すべてを棄てて、望ましく好ましい新天地を求めたのだった。
 けれど――それは所詮、愚かな子どもの反抗であり、未来の見えない未熟者の抵抗にすぎなかった。悪意と敵意に満たされた暗鬱の世界で黒い駆け引きに専心する大人たちの手によって、ふたりはたやすく追い詰められた。当然のことだった――そういう時代であり、そういう世界であった。だが、ふたりはそれを、理不尽と感じた。時代を(うら)み、世界を恨み、何よりも大人たちを怨んだ。
 だからこそ、そのすべてを否定する禁忌を求め、その手を伸ばした。

 岩に砕ける波濤の悲鳴、風に運ばる潮の香り。海辺に突き出した小高い岬の先端で、ふたり、寄り添うようにして、追っ手を睨みつけていた。そろいの装束をまとった追っ手たちが、天上にて照りつける太陽よりもぎらぎらとした視線をふたりに向けていた。
「来るな!」少年が怒鳴った。
「来ないで!」少女が喚いた。
 けれどもそれは、追っ手たちに何の拘束力を与えるものでもなかった。にじり寄る引き裂きの手先。逃れられない宿命の糸が、ついに若い恋人たちを絡めとろうとしていた。この時代における自分たちの運命から逃れられないと知ったふたりはついに、意を決し、それぞれ左と右の掌を、細身のナイフで切り裂いた!
 弾ける血潮が頬に散った。驚く追っ手に薄く微笑み、ふたりは血塗れた手を重ねあった。混じりあう血液こそ、混じりけのない愛の証明。思春期のロマンに酔い溺れた狂気の笑みで、ふたりは高らかに宣言した。
「愛は――」「永久に」
「命は――」「刹那に」
 ゆらり、傾いだその双身。われに返った手先たちが伸ばす手は、岬のへりから海へと投げ出された身体を留める役には立たなかった。肺の奥から搾り出すような笑い声だけを風に遺して、恋人たちの身体は深く冷たい海の中へと没していった――。
 それは、儀式。
 出会いある限り、いずれ別れるという自然の定めを否定する、古より伝わりし呪法。別離を恐れた恋人たちの狂気は、知られざる禁忌に辿り着きさえしていたのだ。
 これを以って、ふたりの愛は永久と化した。
 無論、生あるものはいずれ死に絶えるという、大いなる原則を変えうるようなものではない。だが、それゆえに人は別れるのだという、自然の摂理の裏側を突くものではあった。
 恋人たちの魂は、死してのち、再び現世に生まれ変わる。新たなる人物、異なる人格として生まれ育ちながらも、彼女らの手には、あのとき刻まれたふたりだけの絆がくっきりと残るのだ。そして、それはふたりをいずれ引き寄せる――
 愛が、時代を超えるのだ。
 それこそが、ふたりの望んだ永遠だった。
 それは、ふたりだけの秘密であった……。

 あるときは、対立する軍の将と、その敵将として。
 またあるときは、高名な学者と、その弟子として。
 幾度となくふたりは出会い、そして愛し合った。自ら運命づけたその繋がりだけは覚えていても、かつての自分たちについてはほとんど憶えていなかったから、常に飽くことなき愛を交わすことができた。
 無論、どんな時代にあっても幸せだとは限らなかった。争いや災害、陰謀や苦難がふたりを苦しめ、時に、どちらかが死ぬことなどによって、間を引き裂かれることもあった。けれど、彼女らの胸には、常に希望があった。今生で想いを遂げきれなくとも、来世で再び出会うことができるのだという希望が――。
 そうやって、長いこと――積み重なる人の歴史に寄り添うようにして、ふたりは愛の絆を繋ぎ続けていった。
 世界の片隅で密やかに繰り返される永遠を、他の誰も知ることがないままに。

 ある日、人口わずか五百にも満たない、辺境の小さな村に、ひとりの傷ついた青年が辿り着いた。
 上質の衣は裂かれ、その下の引き締まった肉体は無数の傷に蝕まれていた。ろくに処置もなさぬままどこかから逃げ延びてきたらしく、意識を半ば朦朧とさせ、足をふらつかせていた。
 満身創痍の姿で村に現れた青年を助けたのは、井戸の水を汲まんとしていた娘だった。
 彼女の父は、村に面する森を縄張りとして活躍する狩人であり、応急処置に詳しかった。その技術を授かっていた彼女は、急いで青年を家に運ぶと、傷口を洗い、丁寧に手当てした。幸い致命傷はなかったが、極度の疲労のために、しばらく寝台から起き上がることはできなかった。

 村人たちは青年を怪しみ、見殺しにしてしまえばいいとさえ思う者も多くいた。見ず知らずの男を介抱する娘に野菜を分けてくれる人もいたし、どうせ男に惚れたからだろうと呆れる者もあった。ある若者などは、娘に恋をしていたため、その流言に狼狽し、娘の家に押しかけては青年を激しく罵倒した。
「どこの誰とも知れない奴を、どうして助ける義理がある! 見ろよ、そいつの傷痕を。それは刃物でやられたものだ。あるいはそいつは盗賊で、兵士にやられて逃げ延びてきたのかもしれないぜ」
「根拠もなしに、ひどいことを言うのね!」
 家の戸口で若者を迎えた娘は、彼の物言いに柳眉を逆立てたが、家の中で安静に眠っている青年の体調を考慮して、怒鳴ることはしなかった。その気遣いに思い至ったために、若者はいっそう苦々しげに、憎々しげに、その顔を歪めて見せた。
「でもよ、そいつが村に厄介ごとを持ち込まないとも限らないだろ」
「厄介ごとを持ち込むとも限らないわ。どっちにしたって、傷ついた人を見殺しにするなんて最低よ! 見損なったわ!」
 若者の頬が小気味良く鳴ったかと思うと、続いて木の扉が勢い良く閉ざされ、厳しく叱りつけるような音を立てた。平手ではたかれた若者は、しばし茫然としていたが、やがて「ちぇっ」と不快げに舌打ちして、自分の家へと引き返そうとした。その途中、物見高くこっそり様子をうかがっていた子どもたちが「ふられた、ふられた」とはやしたてるので、彼は「くそがきが!」と顔を赤らめて叫んだ。

 彼ほど直截的ではないにしても、よそ者を村に入れることについて苦言を述べる村人は多かったが、娘はまったく気にしなかった。もともと他者の物言いや視線に縮こまるような性質ではなく、自分の信じるところをまっすぐに貫く気性の持ち主であった。
 彼女はまだ若く、両親とともに暮らしていた。母は青年を家で治療することに躊躇していたが、他の動物を糧とする狩人を生業とする父は、助ける余地のある人間を助けることに異論は挟まなかった。秘伝の傷薬を渡したり、より詳細な介抱の方法を伝授したりするほどであった。
 娘の献身的な介護によって、青年の体調は回復した。
 一日のほとんどを、簡素な木の寝台の上で眠って過ごしていた彼は、数日が過ぎた後、初めて明瞭な意識を取り戻した。そのときちょうど、青年が寝かされていた部屋に、彼の様子を見るために娘が入ってきていた。青年は起き上がり、娘の介護に対する深い感謝を述べた。虚ろな意識の中で、そのことだけは、くっきりと印象に残っていた。
 娘は照れたような笑みを見せたが、すぐに真剣な顔つきになり、小さな左手を青年の前にかざした。
 その掌には、闇夜に閃く雷のごとく鮮明に、縦一文字の傷痕が刻まれていた。
 娘の頬には、長らく待ち望んでいた存在とようやく出会えた事実がもたらす興奮が、桜の花びらとなって散らされていた。潤んだ瞳は、何物にも換えがたい心の宝物、果てしないロマンとようやく巡り合えた幸福に、花びらの降り落ちた湖面のごとく揺れていた。
「あなたは覚えているかしら――今よりもずっと昔、遠い遠い想い出の彼方で交わされた、永久なる愛の誓いのことを」
 もちろん娘は覚えていた――そして、ずっと待っていた。名も知らぬ、顔もわからぬ永遠の伴侶と出会う日が、やがてきっと訪れるであろうことを。
 物心ついたときから、彼女はその運命を知っていた。それがただの妄想でないことは、生まれつき掌に穿たれていた、奇妙な傷痕のようなアザが、証明してくれていた。
「今とは違う自分――今とは違うあなた。そのときの記憶はほとんど残っていないけれど、これだけは憶えている。何度でも幾度でも、生まれ変わるたびに出会い、愛し合う私たちの運命と――その証たる、この傷痕のことを」
 青年は当初、茫然たる面持ちであったが――、「ああ、君もそうだったのか!」すぐに得心と興奮の笑みを見せるや、盛んにうなずきながら、己が右手を天にかざした。そこにもまた、鋭い縦長の傷痕が一筋、くっきりと浮かび上がっていた。
 娘が青年に対してあれほど献身的に尽くした理由が、それであった。待ち望んでいた相手がついに自分の元を訪れたと知って、何世代も以前から続いてきた深い愛を以って接したのだ。そして、その努力は、嬉しそうな青年の言葉によって報われた。
「僕もまた、ずっと探していたんだ。いずれ出会うべき伴侶――同じ紋様を持つ人を!」
 ふたりはこの時代における再会を祝し、歓喜の声とともに抱き合った。爆発せんばかりの幸福感が、互いの胸中を甘く満たしていた。今まで幾度となく繰り返してきたことと知りながら、それでもなお思いの丈を抑えきれずに、娘はただ、抱き合う諸手に力を込めた……。

 当たり前のように二人は恋に落ち、やがて夫婦の契りを結んだ。
 行くあてのないという青年は、村で狩人として暮らすこととなった。元々どこかで狩りを経験していたらしく、基礎的な技術はすでに備えていたから、娘の父親に少し教えを受けただけで、すぐに家族を賄えるようになった。
 当初、村人たちは素性の知れない青年を警戒していたが、彼の明るく社交的な性格が知れると、徐々に打ち解けていった。一年が経つ頃には、彼はすでに村の一員として受け容れられており、二年が経つ頃には、娘との間に子どもができたので、小さな家を建ててもらった。
 青年と娘――いまや父と母になった男と女は、生まれた息子を含めて三人で、仲むつまじく暮らしていた。女は男の過去をまるで知らなかったが、男が語りたがらないのなら無理に聞くこともないと考えていた。何より、彼女にとっては、現在と未来の方が大切だった。
 幸せな時間が、瞬く間に過ぎていった。
 都の方では激動の時代が訪れているという噂を時折、耳にしたが、辺境の村にはほとんど波及しなかった。理不尽な戦乱に巻き込まれることのない、静穏な日々が続いていた。
 村人たちも若い夫婦を祝福していたが、ただ独り、あの若者だけが、濁り澱んだ黒の目線を男に向けていた……。

 森が秋色に変わり始めた肌寒いある日、木槌で打ち込む杭を憎き恋敵の代わりとして、村を囲う柵の新調に精を出していた若者は、ふと、村の入り口に近づいてくる複数の人影を見た。鉄の兜をかぶり、革の鎧を着こんで、槍や剣を携えた数人の兵士が歩いてくるところであった。このような辺境に、兵士の類が来ることは実に珍しい事態で、若者はびっくりして作業を止めた。
 そこへ、鎧の胸に紋章をつけた先頭の兵士が、高圧的に声をかけてきた。
「この村に、よそ者が住み着いたと聞く。我々は、三年前の戦いにて敗走した皇太子を探している。検分させてもらうぞ!」
 その言葉を聞いて、若者の胸に、意地の悪い炎が灯った。もしこれが、他の村人であったなら、すでに溶け込んだ男を売るような真似はしなかったかもしれなかったが、若者にとって、あの男の情報を吐露しない理由は、一片たりとも存在しなかった。
 若者は、悪意を交えて、兵長に男の話を聞かせた。兵長はニヤリと笑ってうなずくと、若者に幾許かのカネを渡すと、配下の兵士たちを引き連れて、村の隅、森に近い位置にある、比較的新しい家を目指した……。

 突如として扉が蹴破られ、鞘より抜き出た刃が閃いた。
 狩りに出かけんと、玄関で出立の準備をしていた男は、ぎょっとして後ずさり、礼を失した乱入者たちの姿に驚愕した。狩り装束と装備の装着を手伝っていた女は、何が起こったのかさえ、しばらくはわからなかった。
 剣を抜いた兵長は、驚く男を見咎めて、手元の似顔絵と照合するや、いやらしい笑みを浮かべて後続の配下たちに合図した。兵士たちもまた剣を構え、あるいは弓をきりきりと引き絞った。
「お初にお目にかかる、皇太子殿。先の戦いで城より落ち延び、よもやこのような辺境にまで至っていたとは。ですが、これまで。あなたにはもはや、帰るべき過去も、行くべき未来もありません。王朝最後の男として、潔く諦めるがよろしい!」
 振り下ろされた銀の一刀。辛くもナイフで受けるも、男は、体勢を崩して転倒した。
 至上の手柄を確信し、出世の未来を夢に見て、兵士は剣を翻した。再び閃く死への近道――だがそれは男を切り裂くことなく虚空で途切れた。
 夫をかばい、飛び出した妻が、両手を広げて刃の前に身をかざしていた。眼は硬く閉じられて、手先は恐怖に震えていたが、挙動に微塵も停滞はなく、意思にも躊躇は見られなかった。夫を助けようとする思いと、死しても次なる未来が待っているという確信があればこそ、可能となる素早さだった。
 兵長が刃を止めたのは、決して女への憐れみなどではなかった。
 本当ならば、一刀の元に彼女を斬り伏せ、続けざまに男の首を刎ねるつもりだった。だが、結果として、思い描いた未来は実現せず、意想外の事態が結実することとなった。
 兵長は、愕然と震えていた――その震えが、女の頭より少し高い位置で止められていた剣の切っ先にも表れていた。
 怪訝に思った女が、そろそろと瞼を開くと、兵長は剣を取りこぼし、「ああ!」と感極まった叫びをもらした。その目は、熱に浮かされたように潤み、女を見つめていた。
 えもいわれぬ不安感が、女の胸中で膨れ上がった。見覚えのある眼差しだった。それは、三年前、青年の瞳に映った自分の姿――
 兵長は、言った。
「君は……、ああ、君こそは! 追憶の彼方、遠き前世で私と愛を誓い合った、永遠の婚約者ではないか!」
 彼の視線は、広げられた女の左掌に注がれていた。誰の目にも鮮やかな、縦一文字のアザ。由来を知るのはこの世にふたり、ただそれだけのはずなのに――
 眼を見開く女へと、兵長は己の右手をかざした。幾度となく剣を振るい、分厚く無骨な姿となってなお、そこにはくっきりと一筋の傷痕が残っていた。
「見よ、我が右掌を! この縦一文字、君のそれと同じものだ! ああ、ついに出会えた! 長いこと、長いこと、探していたのだ!」
 女は激しく動揺し、思わず背後を振り返った。敗走の皇太子であった夫は、その視線を受けることかなわず、ただうなだれるように床を見つめていた。相貌に宿る苦渋の色が、無言のうちに真実を肯定していた。
 頭の中が沸騰し、また瞬時に凍てついた。それほどの衝撃が、彼女を揺さぶっていた。
 間違えていた――運命の人を、違えていた。
 星霜の昔から、常に愛し合ってきた人を……掌の傷痕だけで判断して、間違えてしまっていたというのか。
 生まれたときから信奉していた永遠の愛、その確かさに亀裂が走り、女は、われ知らず、震え出していた。
 背後には、この三年間、愛し合ってきた人。目の前には、ずっと待ち望んでいた、本当の婚約者。決断の岐路は二筋に別れ、女の選択を待っていたが、混乱する頭では、選択肢を認識することさえおぼつかなかった。
 どうしよう――どうすれば。私は――私は、どうすれば――……
「どうしたの?」
 いとけない声が、凍れる空気を破壊した。
 ようやく歩き、言葉を喋ることができるようになった息子が、居間を抜けて現れたのだ。
 その登場に驚いたのは、むろん両親ばかりではない。女の面影確かな幼子に、兵長が顔面を蒼白にした。その存在が意味するところを、一瞬のうちに理解してしまったのだった。
「殺せ!」
 反射的に、その口から殺伐の叫びが飛び出した。
「皇太子の血族は、生かしてはならん――殺せ! 殺すのだ!」
 理解しがたい成り行きに狼狽していた兵士たちは、ようやく出された明確な指示に、しかし、さらなる混迷を見せた。皇太子が子を成していることまでは想定していなかったために、いとけなき子を殺す覚悟ができていなかったのだ。彼らの間に生じた躊躇の一瞬は、母たる女に覚悟を決めさせた。
 女は素早く息子を抱き上げ、「立って!」夫に告げるや、家の奥へと駆け出した。行動してから、ようやく気づいた――名も知らぬ「運命の相手」より、愛する夫と息子の方が大切だったのだと。その事実は、思ったよりすんなりと、彼女の心に納得の根を張った。そのことに、彼女は心からの安堵を覚えた。
 女の動きに、即座に男が続くのを見て、弓兵たちが弓を放とうとするが、「待て! 射ってはならぬ!」悲鳴のような兵長の叫びに機を逃し、ついに狙撃はならなかった。もし射れば、愛する乙女に流れ矢が当たってしまうかもしれない――そんな危惧が、好機を逸したのだった。
 男と女は、家の中を駆け抜けながら、家具の類を蹴飛ばして、追いかけてくる兵士たちの進路を妨害した。狭い家の中で剣を抜いたままでは、満足にそれを切り抜けることもままならぬ。兵士たちが手間取っている間に、ふたりは息子を連れて居間の窓から外に抜け、一目散に森へと馳せた。
「なぜだ――」
 兵士たちは、かすれた叫びにぎょっと振り返った。いつも彼らを叱り飛ばす厳格な兵長が、今にも泣き崩れそうな兆候を表情の端々から発しつつ、地面を殴りつけていた。
「なぜなのだっ!」
 永遠の伴侶に裏切られた兵長の、悲痛な絶叫だけが、ふたりの背中に届いていた。

 広い森の中で、三人は夜を迎えた。
 火を熾しては追手に見つかるかもしれないと知りながら、寒がり凍える子どものために、暖を取らずにはおれなかった。
 着の身着のまま、夫が腰に帯びたわずかな狩猟の道具があるばかり。毛布も得られず、三人で寄り添いながら、火に当たるしかなかった。
 二人の狭間で穏やかな寝息を立てる我が子を見つめつつ、ようやく男は口を開いた。
「すまない……すべて、嘘だった――」
 反乱の軍に敗れ、命からがら逃げ出して、辺境の村に辿り着けども、まさに尽きんとしていた彼を看護してくれた、優しい娘。朦朧たる意識の中で、いつしか彼女に心惹かれて、かつてナイフを研いでいた折に裂いてしまった右手の傷痕があるのを良いことに、娘の勘違いを利用してしまった――その偽りを、彼は吐露した。
 沈痛な面で、いかなる罵倒も受け容れんとする男の肩に、女は静かに頭を乗せた。すやすや眠る息子の頬を、優しい手つきで撫ぜながら、「いいの」と一言、赦免した。
「たとえ勘違いから始まった恋でも、私はとても幸せだった。あなたは私がとても好きだし、私もあなたがとても好き。何より、この子がいてくれる――」
 確かにかつて、永久を望んだ。運命の人を待ち続けることが、自分にとっての幸せだと思っていた。けれど、それは、いまの幸せを棄ててまで欲しいものではなくなっていた――だから彼女は、過去を見限った。
 それでもいまだ、胸にはかすかな痛みが残っていた。罪悪感のような、慙愧のような、針で刺されたときに似ている、小さな痛み。永遠を誓った恋人を裏切った、罪の味。底知れぬ切なさを感じるけれど、背負わずにはいられない……自分で選んだ未来だから。
 星屑の夜、ふたりは互いに寄り添った。いままで幾度となく感じてきた、お互いの、そして小さな我が子の温もりを、改めて確認するように――あるいは、その心身に、刻みつけんとするかのように。
 夜の冷たさを感じる余裕など、ありはしなかった。

 幼子と、家事に専念して久しい女を抱えての逃避行には、やはり、さすがに無理があった。追いかけてくる兵士の中には、もともとは狩人であった者がいたのかもしれない――あるいは、夜通し捜索を続けていたのか。一夜が明ける頃には、こちらの位置は発見されていた。
「いたぞ!」「野営の跡だ!」「こっちだな!」「馬鹿、叫ぶな! わざわざ教えてやることもない!」
 迫り来る影を察知して、三人は逃げた。男は胸に息子を抱いて、女と手を繋ぎ、息せき切るようにして、走っていた。彼にはまだ余力があるが、女は体力の限界が近づいていた。足がガクガクと震え始め、力が入らなくなってきていた――そのせいで、徐々に、三人の移動速度は減少していた。
 捕まるのは、時間の問題だった。男の表情には、焦りが満ちていた。このままでは遠からず最悪の事態になってしまう。なんとかしなければ……だが、どうやって……。
 そのとき不意に、女が立ち止まった。ぎょっとして足を止め、怪訝そうに振り返る夫へと、彼女は落ち着いた声音で告げた――揺るぎなき決意の色を伴って。
「私に……、考えがあるわ」

 体力なくして兵士は勤まらぬ。夜通し、憎い男と愛しい女を追い続けた兵長は、目標との距離が急速に縮まっていくのを知って、興奮を抑えきれなかった。ずっと、ずっと、約束された伴侶に巡り合うためだけに、生きてきたのだ。その浪漫を奪い去った皇太子を許すことなど到底できないし、いまさら彼女を諦めることもまた、不可能であった。
「私が彼女といっしょになるのだ――それが、定められた運命なのだから……!」
 行き先阻む草々を手にしたナタで切り払い、兵長は口元に笑みを刻んだ。兵士たちは、そんな兵長の様子に疑念を抱かずにはおれなかったが、互いに肩をすくめあうだけだった。
 と。
 不意に、兵長が動きを止めた。何事かと兵士たちが緊張しつつ前を見れば、木々にはさまれた細い獣道――彼らが行くその先に、ひとり、女が立っていた。
「おお……!」
 にこり、優しく微笑みながら、無造作に佇んでいる「恋人」を見て、兵長の顔は歓喜に彩られた。やはり、あんな男より、私の方が良かったのだ。然り、然り――それこそ、我らが運命なれば!
「おお、君よ……、戻ってきてくれたのか!」
 喜び勇んで駆けつける兵長――待ち受ける女は、ただ透明な笑みを宿すのみ。表情の下に隠された真意に、兵長は気づかない……。

 どのような策があるというのか――聞き返す夫に、妻は薄く笑ってうなずいた。自信に満ちた、けれど寂しげな笑顔だった。押し殺された妻の痛みを、男は敏感に感じ取った。
「彼の目的は私。あなたに会うまで、永遠の婚約者との再会を望んでいた私には分かる――彼にとっては、私を得ることこそが、何よりの目的なんだって。だから私は、その目的を諦めさせることで、あなたたちが逃げる時間を得るわ」
 女は男に抱きつき、眠ったままの我が子の額にキスをした。女の意図が見出せず困惑する男は、彼女の手が伸ばされた先にあるものに、最初、気づかなかった。
 女は――、言った。
「そう……私が永遠を棄てればいい――」

 兵長は、駆け寄る勢いもそのままに、女に抱きつこうとした。彼女が自分を受け容れてくれることに、何の疑いも抱いてはいなかった。だが、現実には、女の数歩前で止まらざるを得なかった。驚愕に見張られた彼の瞳には、優しい笑顔でナイフを抜き放つ女の姿が映っていた。
 女は何も言わず、ナイフを閃かせた。

「長を潰せば、指揮が乱れる。ほんの少しの時間が稼げる……」
 言って、女は男の腰から鞘ごとナイフを抜き取っていた。身を離す女、その諸手を男は咄嗟に握り締めた――えもいわれぬ不安感が、そうさせた。
「君が――彼を殺すというのか? でも、彼は、君の……」
 女の心情を慮り動揺する男に、彼女は緩やかに首を左右に振った。そして、男の無骨な両手に、自らの細い両手を重ねて、言った。

「私が、死ぬの」

 ぐさり、ナイフが喉元に突き刺さり、そして素早く引き抜かれた。大事な血管を引き裂く致命傷――ほとばしる鮮血が緑を穢した。
 眼前で生命を散らした「恋人」の様に、兵長は言語と呼びえぬ絶叫を上げた。彼は知っていた――女が自らの生命を絶つ、その意味を、彼はよく知っていた――。
 たとえ死んでも転生し、次なる生にて再び出会う。それが、彼と彼女の作った定め。それを知っているからこそ、今生では添い遂げることかなわぬと知ったとき、ふたりはいつも、躊躇いなく生命を絶ってきた。
 螺旋に連なる、久遠の絆。それを断つ方法は、たったひとつしかない。
 すなわち、ふたりのどちらかが「永遠の愛」を否定すること――ふたり合意することなく、片方が片方だけの意思で、自らの生命を断つことであった。
 だから、彼女は、もう、続かない。
 ぐらり、視界が傾ぐのを自覚しながら、女は微笑みに満足の色を添えていた。彼女が永遠を放棄したことで、兵長のロマンは――生きる意味は失われた。いずれ立ち直ることがあるとしても、長い時間がかかるはずだ。そして、失意の兵長に、兵を指揮する能力は失われるだろう。そうすれば、いま夫と息子が逃げる時間を稼ぐことは出来る――
 自分が、生命を犠牲にすれば。
 長いこと愛し合ってきた相手を裏切ることへの痛みも、今生での幸せを棄て去る未練も、当然のように、彼女の胸にはあった。けれど、躊躇う必要はまるでなかった。なぜなら……それは――

「なんてことを……!」
 恐るべき女の告白を聞いて、男は泣きながら彼女を抱き寄せた。止めても無駄だということは知っていた。優しい彼女には、永遠の愛を誓い合った恋人であるあの兵長を殺すことなどできはしないだろう。さりとて、このまま捕らえられ、夫と息子が殺されることを許容することもできない。そのくらいなら、自分の生命を差し出す人だ。そして彼女は、一度言い出したら断固としてそれを実行する気質の人なのだ……。
 子どもがおらねば、男は自分こそが犠牲になると言い張っただろう。だが、遺された女と幼い息子だけでは、すぐに兵士に捕まってしまうことは明白だ。だからこそ、何も言えなかった。だからこそ、自分のふがいなさに、泣かずにはおれなかった。
 男は、女から身を離すと、懇願するように、女の両手を強く握った。
「ならばせめて、僕と永遠の契りをかわそう! それならば……」
 次の生で出会うこともできるから。そう言おうとした彼に、女は首を横に振った。その仕草には、どこか、自嘲じみた翳りが見られた。
「そんなものには、意味がないわ。私たちが求めた永遠の絆は、ただの記号。小さな勘違いで崩れるような、もろいもの……。私たちは、ひょっとしたら、『永遠の愛』というロマンだけを求めていたのかもしれない」
 そうでなければ、「傷痕がある」というだけで、この人と結ばれはしなかっただろう。けれど結局は、傷痕など関係なく、この人こそが、今の自分にとって最高の人だと思えた。運命と言うなら、それこそが運命だったのだろう――。
 生まれ変わっても、自分は前世を覚えておるまい。掌に傷痕はなく、運命の人を待ち続けることもあるまい。かつては、転生してもなお再び愛し合うことができるという安堵があったから、潔く命を絶つことができた。だが、今は――

 どさり、大地に仰向けに倒れた彼女は、頬に触れる草のくすぐったさに、そっと笑った。そうするだけの余裕があった。痛みよりも、未練よりも、なお大きな満足と希望が、その胸に息づいていたから。
 「永遠」よりもなお大切な、「いま」と「未来」を守ることができたのだから。
(さようなら――、私のロマン)
 心の中で、わずかにつぶやき――
 永久(とわ)なる愛に、別れを告げた。