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≪闇の彼方≫




※取材とか考証とかしてないのでかなり適当です。信用しないでください。

 狭く無機質な面接室の中、小木の目の前には、スチール製の机を挟んで、にこやかな微笑をたたえた男の姿がある。
 七瀬茂久――32歳。健康食品開発メーカーの営業職。小柄な体格や、丸みを帯びた顔つきが、彼の穏やかな微笑みに、いっそう柔和な印象を与えている。
 とても、泣き叫ぶ妻の前の前で、愛する0歳8ヶ月の娘を手にかけ、解体し、調理して、平らげたようには見えない。
 深夜、彼は突如として凶行に及んだという。夜泣きに慌てる妻の目の前で、娘を取り上げ、硬い床に叩きつけて殺害した。その後、妻を縛り上げると、娘の遺骸を包丁で解体し、柔らかな肉を、煮立った鍋に野菜といっしょに放り込んで、じっくりと味わった。そして、平然と警察に出頭し、事の顛末を詳らかにして、たちまちのうちに、世間の注目を浴びることとなった。
 警視庁捜査支援分析センターに属する小木に回ってきた役割は、見えない犯人像のプロファイリングではなく、異常犯罪に至った眼前の犯人の心理分析だった。と言って、世間の人々が期待するような、『いかなる環境が彼を食人衝動に至らしめたか』をセンセーショナルに暴き立てることが目的ではない。あくまでも、捜査の一環として、明らかにされていない事実の有無を、冷静に分析するための作業だ。
「あなたは――」
 他に聞くものとてない、閑静なる部屋の中に、強いて穏やかな小木の声が響く。
「なぜ、娘さんの遺骸を食そうと思われたのでしょう?」
「愛おしかったからです」
 七瀬が答える。陶酔というわけでもなく、後悔している風でもなく、述懐というほど複雑な思いに満ちてもいない。実に淡々とした、当たり前のことを説明するような、何気ない口ぶりだった。
「彼女は、私の血を分けた娘です。その存在感と魅力は想像以上で、私は、いつか彼女を手放さねばならないことに、恐怖さえ覚えるようになりました。だから、今のうちに、誰の手も届かない、私だけの彼女にするために、こうした手法を取る必要があった。単に、それだけのことです」
 憧憬の対象を取りこむ同一化――食人衝動について、心理学的に語られる説のひとつである。犯罪における食人行動としては、性的欲求の大いなる変化球としての同一化が多いものだが、他者との同一化という衝動の根源は、必ずしも性的欲求にのみ起因するものではない。七瀬の語る動機も、既存の食人心理から見れば、決して不自然なものではなかった。
 いかにも誠実そうな、『まさかあの人が』というタイプの人間が、娘に異常な執着を示し、彼女を永遠に我がものとするため、食人を行うに至った――いかにもありそうな話であり、テレビ番組で犯罪心理学の専門家が語りそうな話であり、人々が喜んで聞きたがりそうな話であった。
 七瀬は笑みを崩さなかった。余人には理解できない崇高な目的を達成し、自分だけの芸術世界の高みから世界を俯瞰する凶悪犯の、不遜なまでに圧倒的な余裕――そう見えた。裁くなら裁けばいい、自分の世界観は揺るぎなく、狭く矮小な世間の常識など意にも介さない、とでも言わんばかりに。
「ためらいはしなかったのですか? 大事な我が子を、手にかけることに――」
「ためらいがなかったわけではありません。ですが、それを上回る使命感があった。それに殉じただけのことです」
 狂っている――そう言いたくなる。おかしすぎる論理を、平然と語る彼の姿を見ていると。
 だが、目の前の男は、その言葉とは裏腹に、何かに陶酔している様子はなかった。淡々と、滔々と、自らの所業を語る様からは、狂的な風は感じられない。正気だ。彼は、正気の沙汰として、自らの子を喰らったのだ。
(だが――何かがおかしい)
 小木の経験は、違和感を訴えていた。
 そして、その違和感を辿っていくと、ひとつの論理に辿り着いた。単なる推測であり、何の証拠もない。だが、それは――もしかしたら、という思いを抱かせた。
「……ひとつ、推論を述べてもよろしいでしょうか」
 小木は、考えた末に口にした。身を乗り出し、相手の瞳を見つめる。彼の考え通りなら、七瀬は動揺すら見せないはずだ。事実、相手の態度に変化はなく、小木は自分の推測が補強されたことを感じた。違ってくれと願いながらも。
「あなたは、生まれてこのかた食人衝動など抱いたことのない、いたって健全な人間だ」

「あなたの娘さんを殺したのは、あなたの妻だ。あなたはその殺人を隠蔽いんぺいするために、あえて娘さんの遺骸を食し、自らを異常な食人鬼に見せかけている」
 七瀬の話は、誰もが納得してしまいたくなるような、もっともらしさに満ち過ぎていた。端正に舗装された道路のように、この論理をまっすぐ進めば事件の真相に行き当たりますよ、と誘導されているのではと思えるほどだった。
 もしそうだとすれば、あえて、食人をしなければならなかった理由がある。
「あなたの語る食人像は、儀式的なものだ。憧憬の対象と同一化するために、調理という文明的な過程を入念に経て、対象に敬意を表して食する――それ自体はありうる心理だ。
 だが、だとすれば違和感がある。殺人の方法が野蛮に過ぎることだ。
 娘を床に叩きつけて殺害する心理と、丁寧に調理して食する心理が結びつかない。あなたの食人像ならば、例えば、寝ているところを、苦しまないよう、またできるだけ外見を傷つけないよう心臓を刺すなど、被害者への敬意と配慮に満ち、殺害方法それ自体に儀式的な意味を持たせた、文明的・理性的な秩序型殺人になるのが妥当なはずだ。だが、実際の殺害方法はむしろ、突発的な無秩序型殺人に近く、被害者への敬意や配慮など、微塵も感じられない」
 七瀬の表情は崩れない。
「なぜか。それは、娘さんの死が突発的なものだったからだ。
 夜泣きする娘を持てあまし、ノイローゼ気味になっていた奥さんは、とうとう耐えきれず、突発的に娘さんを殺害してしまった。錯乱状態だ。凶行の後、われにかえった奥さんは、自分のしたことを認められず、これは自分がやったのではないと思いこもうとした。それを見たあなたは、さも最初からそうするつもりだったかのように、娘さんの死骸を調理した。殺したのが自分だということを、錯乱状態の奥さんの記憶に印象づけるために」
 七瀬の妻が、娘の夜泣きをはじめとする様々な要因から育児ノイローゼに近い状態になっていたことは、調査結果が報告されていた。
 人間の記憶の不確かさには、定評がある。否定したい現実から逃れるために、本人すら自覚していない嘘の記憶を作り出す――七瀬が行ったのは、その後押しだ。自分がやったのではないと思いこみたがる妻の記憶を、より補強するために、圧倒的インパクトを持つ手段を採った。妻の中で、夫が娘を愛するあまり、殺して食したという『事実』を、確固たるものとするために。
 七瀬は、顔色を変えすらしない。当然だ。ここで動揺することは、彼にとって何のプラスにもならない。それどころか、こうした追求を受けることを、彼はすでに、数万回とシミュレートしているはずだ。
 犯人が自首しており、目撃者と犯人の言動が一致しており、他に証拠が見つからない現状、小木の語る話は。完全なる推測に留まるしかない。この追及も、単なる揺さぶり以上の意味を、現時点では持たない。七瀬が動揺さえしなければ、事は、彼の思うがままに運ぶのだ。
 おそらくだが、妻は最初、子供の首を締めようとしたのではないか。だが、赤子とはいえ、人はそうすぐに窒息するものではないし、長いこと首を絞め続けるには、強烈な殺意の継続が必要となる。妻はすぐに耐えられなくなり、より簡単で直接的な殺害手段として、子供を床に叩きつけた。七瀬が食人という手段を採ったのは、子供の身体に刻まれた絞殺痕を、どうあがいても見つけられないようにするための、証拠隠蔽の意図があったためかもしれない――。

 結局、七瀬は何も語らなかった。小木は苦い顔のまま、面接室を後にし、帰りの廊下を歩くほかなかった。
 小木の推測通りだとすれば、七瀬が採った手段は、誰も幸せにならない選択だ。妻が不幸の極みに堕ちることを防ぐために、自らが大いなる不幸を背負い、妻の負担を軽くした。どうあがいても幸福に転換できない膨大な不幸を、分散することで、彼女を守ろうとしたのだ。
 だが――彼の心理を思うと、小木はぞっとする。
 愛する妻の心を守るために、食人の意志などかけらもない健全な人間が、愛する我が子の死体を解体し、残さず食べなければならない心理。身を呈してかばい、守りたいと願った対象から、これ以上ないほどの恨みと憎悪と憤怒を受け続けなければならない心理。親類縁者はおろか、世間のありとあらゆる人間から、我が子を喰らった最悪の食人鬼として認知され、唾棄され続けなければならない心理。自分には、とうていそんな真似はできそうにもない。よしんば実行しようとしたとしても、我が子の身体に包丁を入れる段階で挫折するに違いない。
 七瀬の最大の不幸は、かくも非人間的な所業を実行しうるだけの覚悟と精神力を持ちあわせていたことかもしれない。彼自身は、それを不幸とは思わないだろうが……。
 小木は、深く嘆息した。
 彼の仕事は、真実の追求ではない。他の捜査官が、綿密な捜査の末に、真実らしきものに辿り着くための根拠のひとつとして、容疑者との面接で得られた知見を報告することに尽きる。彼が、七瀬に直接語ったような内容を報告したとして、証拠がない限り、それは一意見に過ぎない。
 捜査分析支援センターは、小木のような分析を行う捜査支援部門と、科学技術を駆使した徹底解明に明け暮れる情報支援部門を擁している。情報支援部門は、小木の分析を元に様々な検証を行うだろう。頭蓋骨の損傷の角度から、犯人の背丈を導くことも――それによって、七瀬が犯人でないという推論を補強することも、可能なはずだ。もっとも、それと、て証拠として絶対な精度を誇るわけではない。七瀬の隠した真実が明かされる可能性は、決して高くはない――そして、小木個人としては、その方が良いとさえ思えるのだった。
 真実が明らかになったとしても、当事者が誰も得をしない――それどころか、より大きな不幸に突き落とされるだけなのだ。ただ、虚しさが残るだけで。
 だが、七瀬はその道を選んだ。誰よりも妻を愛するがゆえに。
 七瀬は、死刑を求刑されるかもしれない。殺害人数は一人だけだが、極めて常軌を逸した願望から及んだ殺人であり、自首こそすれ。、本人に反省や更生の意思はない以上、無期刑ではなく、極刑となる可能性は充分にある。
 彼にとっては、その方が幸せなのかもしれないと、小木は思わずにはいられなかった。
 一片の光とて差さない、無明の牢獄に閉ざされることを自ら選んだ七瀬にとって、死を伴う断罪の瞬間こそが、この先の人生で唯一得られる安らぎだろうから。